普遍的等身大

花束みたいな恋をした、という映画を見た。恋愛ものの映画である。

映画が主張する粗筋は以下である。

ある夜、終電を逃すという些細なきっかけで出会った大学生の麦と絹。互いが互いを意識しながら居酒屋で自己紹介をすると、2人は共通点ばかりだということに気づく。同じスニーカー、絡まったイヤフォン、栞がわりの映画の半券。あまりに共通点の多い2人は運命すら感じてしまう。意気投合した2人はそのまま男の家に行き夜通し喋る。数日経ち、3度のデートを重ねた2人は交際することに。順調に恋路を進める2人であったが、重なった共通点、価値観、趣味は2人の就職を機にずれるようになっていく。喧嘩をするようになった2人は、やがて喧嘩もしなくなるくらいに希薄な関係になってしまい…。

ということである。おそらく映画の狙いは、誰もが憧れる大恋愛ではなく、等身大の、全員が経験のある小さな恋を映し出すことで感情移入させ、月日とともに変わりゆく価値観と、それに伴うすれ違いを描き、共感と自己投影により泣かせる。と言うところにあると思う。花束みたいな・・・というのは、全長の瞬間を切り取る、という意味があったり、花が一本一本紡がれて花束になる過程を恋愛に例えているのだろう。この映画は見た人全員が分かりやすく共感できるよう、史実に沿って展開される。アーティストの活動停止や、アイドルの解散。5,6年前に恋人がいた(もしくはその人とまだ付き合っている)人であれば誰もがその人たちの会話に何か引っかかるようにできている。ほかに、付き合いたての時期に彼の家に三日三晩入り浸ってセックスしまくったり、果てた直後にご飯を食べに行ったり、お風呂に入っていちゃついたり。どんなカップルにも、こんなことがあったよね、というものが少しでも被るように丁寧に男女が惹かれあい心を詰めていく作業と過程が描かれていた。どこかの環境大臣のような言い回しになってしまうが、人は覚えているものしか覚えていない。当たり前である。ではどう言ったものを覚えているかといえば、印象に残ったものしか覚えていないのだ。女性が、男性が女性の胸を見ていることは全部分かっている。ということをたまに耳にするが、それは違う。気が付いたものしかカウントしないから全部わかったような気がするのだ。知らないものは知らないからそもそも母数に入れない。女性諸君、男性はもっと君たちのおっぱいを見ている。・・・話はそれたが、この映画もそれと同じで、世間一般によくあるデートや恋愛をスクリーンで流すことで、それがひとつでも引っかかれば、この映画のカップルは自分たちと同じようなカップルだ。と思わせることができる。かくして自分を重ねてみていると、別れのシーンで泣けてしまう。あんなことあったよね、と昔の恋を思い出すといった寸法である。

そもそも、小さな恋というものは存在しない。彼女が生き返って、とか、時を超えて、とか、寿命が何か月で、とか、記憶がなくなって、とか。そんなものがなかったとしても人の恋愛はいつだって大恋愛である。この映画にしたってそうである。些細なことで付き合って運命を感じるようにできているが、普通、たまたま終電を逃した世代の違う男女4人は飲みに行かないし、そこにたまたま押井守がいることもない。そこで出会った異性が同じスニーカーを履いていて、同じ作家の文庫本を好み、栞に映画の半券を使っていることなどまずないだろう。

そして、時間とともに成長する二人と、それに伴う心情の変化、それによる心のすれ違いを描いているように見える。しかし、人はそうそう成長しない、基本的に成長したと思ったときは、その環境に慣れたか、自身がマイナーチェンジしただけである。この映画の男も、就職を機に考え方が変わり、彼女のことをいつまで学生気分でいるんだろう。と蔑むシーンがあるが、あれは価値観が変わったとか、成長したとか、そんなことではない。もともと環境に染まりやすい性格で、体育会系の仕事に就いたからそう思っているだけなのである。まあ、一種の中二病だ。サブカル好きで駆け出しカメラマンの先輩に憧れていたり、彼女につきあって好きでもないミイラ展にいったり。自分に余裕がなく、環境に染まりやすい性格であったら、ストレスがたまれば他人に攻撃的になってしまうのもうなずける。彼女にしてもそうだ、周りと自分は違うといって周囲に溶け込まないシーンがいくつも出てくるが、自分と相いれない存在に対し、ひどく排他的であった。自分の趣味や考え方はそれとして、別の考え方もそれはそれでいいよね、というスタンスをとれないのであれば、仕事に忙殺する彼氏に不満がたまるのも仕方なかろう。互いが互いに歩み結って認め合うことをしなければ、負荷がかかった時、白日の下に人間性がさらけ出されたとき、うまくいくはずがない。社会に染まって「ピクニック」を読んでも何も思わないかも。と思わず口走ってしまう彼がそれを裏付けている。恋愛のきっかけとして互いの共通点を介して距離を縮めることに何の反対もないが、二人の関係がそれ以上でもなく以下でもない状態が続けば、環境が変わって共通点がなくなった時、気持ちがなくなるのは至極当然であり、予想された事実であると思う。

あの二人が別れたのは、成長の過程で生まれた価値観の相違が原因でも、社会の理不尽さが原因でもない。自分たちがいかに凡庸な人だったか、をゆっくりと、しかしまざまざと見せつけられていくからである。

冒頭で主人公は、自分がGoogleMapに映っていることについて喜んでいる。人とは違ったポップカルチャーを楽しみ、社会の歯車のような人たちを嫌い、自分のイラストの才能を職業に生かしたいと考える。また、出会う彼女もまた、合コンや人脈の発掘などに興味を示さず、自分の感性を大切にし、自身を特別な存在だと思っている。しかし、本当に特別な存在の人間というのは押井守のような人間であり、彼らはそれを神と崇め祭る一意性のない周囲の人間であることに他ならない。

自分の存在がセルフイメージとは違っていた、というのはイラストの仕事がなくなってしまうシーンで演出される。自分に才能があると思って、世界にそれを認めてもらいたいという思いをよそに、自分のイラストはイラストやに惨敗してしまう。自分の市場価値というものをまざまざと見せつけられる残酷な体験である。そして、彼女との生活のために始めた実務的な仕事で現実を知り、当初はあいた時間に創作活動や芸術鑑賞をすると意気込んでいてもそんな時間もやる気もなく、「パズドラしかやる気が起きない・・・」という状況に陥る。社会ではありふれた構図だ。社会に出てからゲームをやらなくなったり、休日に何もする気が起きなくなるというのはよく聞く話だ。しかし、主人公はそう言った人種を一番嫌っていたはずで、自分にとって一番大切なはずの物を守るために自分にとって一番嫌いな人種に成り下がる、というのは得も言い難い屈辱があるだろう。彼女もいっしょで、きっと結婚をして子供を産めば、ゲームに興じたり、マイナーな劇を見に行く気力も時間もなくなるはずだ。彼らを見ていて、おそらくはそういう未来に踏み出す勇気も、愛情もなかったのだろうという背景が推察される。

それは、彼らが社会に出て変わったのではない。大学時代にはそれを遂行するための時間や経済に余裕があった、というだけである。そして、彼らにとってポップカルチャーはそれ以上でもそれ以下でもなかったということである。二人の関係の悪化に、それが、自分たちの理想と現実の相違に気が付く瞬間が、関わっていないはずがない。

冒頭に、じゃんけんのグーとパーに関する主人公の考察が出てくるが、それは「人とは違ったものの見方をする自分」という奢った自分の評価が表現されていると思う。そんな疑問、人類単位で考えれば数えきれないほどの人が感じてきた機微である。そして、自分と同じじゃんけんの疑問をもつ異性を「固定概念にとらわれない耽美な発想力を持つ自分」と同じ発想を持つ人間として陶酔してしまう。平たく言えば、酔った自分を理解できるあいつはできるやつだ。と一緒である。新興宗教が互いの結束力を高め排他的な考えを持つことと同義で、結局、世界が狭いの一言。これに帰着する。

最後のシーン、かつて相手に告白したファミレスに戻り昔話に花を咲かせたところ、若かりしころの自分たちと同じようにポップカルチャーを語る二人の男女が、恋路に踏み出そうともがく姿を見ることになる。二人はこの時涙を流して悲しんだが、それは、必ずしもノスタルジックな心情によるものではなかったと思う。自分たちのような存在が、この世界にはいかにありふれているものだったか、現実を目の当たりにしたが故のものであったはずだ。

自分に才能があるという勘違い、社会の歯車となっていく不安、そして普通であることと自分であること、アイデンティティの模索。

幼い情熱と、その沈下による不完全燃焼感と、淡く古き良き時代と感じる思い出。

その狭間で起こる恋愛模様の描写として、広く人々の心に残る映像であったのではないだろうか。