雑記

高校で数学の教師をしていると生徒に言われることがある、こんなことを学んで何になるのか、と。

確かに、サインもコサインも知らなくたって大人になれる。

彼らが思ったように私も高校生の頃は勉強に対する意義を見つけられなかったし、なるべくならしたくないと思っていた。その機微自体は、おそらく日本人の全員が人生の何処かで思ったことのある疑問であるのではないだろうか。私がその疑問に答えを見つけたのは社会人になってからであったが、今日は少々退屈かもしれないが私の考えについて徒然としたためさせてもらう。

そもそも、誰もこの問題にすっきりとした答えが挙げられないのは、この問題に絶対解が存在しないからである。すなわち、勉強しなくてはいけないことに対して、理論として破綻のない、誰にも反論の余地を与えない肯定文は存在しない。世の中には絶対解の存在しないものが数多くあって、そんなこと今日日小学生でも知っている。環境に全く影響を与えない人間の繁栄はできないし、なんの命も賭さずに生命活動を続けることもできない。むしろ絶対解の存在しない問題の方が世の中には多い。しかし、われわれの定義するところによる学生の勉強とはその殆どに絶対解が存在するあまり、その対比として、そもそもの勉強することについての絶対解を学生は、またわれわれも、求めがちである。

遡ってまず、勉強の意義に絶対解が存在しないことから踏み出さねばいけない。そして、それを認めた上で、納得解を探すしかない。誰もが絶対解を持たない、漠然とした問題について考え納得解を与える学問を人は哲学と呼ぶが、勉強について哲学的に思考するにあたり、まずはその作法に則り以下に気をつけたい。

すなわち、自分の経験を一般化しないこと、そして答えをみだりに狭める質問をしないことだ。ほかにも、ニヒリズムとかいろんな教えがあるけど、とりあえず今は無視する。気になる人は勝手に図書館でも行ってニーチェにでも教わって欲しい。

自己経験の一般化は、とかく大人は陥りがちである。狭義的な体験をあたかも真理として扱ってしまう現象である。勉強をするのはいい大学に入っていい企業に就職するためだ。と自分の子供に解くというのは典型的な自己経験の一般化で、それはあなたの人生においてそうであっただけに他ならない。当然、その反対である、勉強などしなくとも良い人生は送れる。という考えを絶対解とするのも広い目で見れば間違いだ。それも、億を超える日本人の中で、たった1人あなたの経験がそうであっただけに過ぎない。今時の若者は、最近の男は、などとちっぽけな自分の世界を一般化してカテゴライズすることは、視野を狭め思考を飛ばすことで自分の幅を極端に減らし、他人の可能性を潰す。もちろん、物事を傾向として捉えることは有益な結果を生むことも多いが、それが全てだとしがみ付いてはいけないのだ。答えの幅を狭める質問とは以下のようなものである。例えば、塾の先生と学校の先生はどちらが教え方が上手いか。などという質問である。今あなたは自分の経験の中から塾に通った思い出を引っ張り出して、学校ではわからなかった授業が塾の先生の教えで理解でき、やはり学校の先生の教え方はなってない、塾の先生の方が教え方が上手いんだ!と思った記憶を見つけたかもしれない。しかし結局それも自分の経験を一般化しただけで、たまたまあなたにとって学校の先生が合わず、塾の先生がたまたま合っていただけである。どんなに有名な予備校講師にも相性の悪い生徒はいる。どんなことにもいろいろなケースがあり、一つとして同じ事象はこの世に存在しない。そんなことを一般化させるような質問は、はなからできないのだ。もちろん、塾の先生が勉強を教える、その一点において技を磨きそれだけを主にした生業であることは無視できないが。

 

では、勉強するのは何のためか。

 

この解の絶対解が存在しないことに着目すれば、あなたにとって意義のある理由があればそれはもう正解だ。つまり、平坦に言ってしまえば、何でも良いのである。いい大学に入るためだと思ってそれに納得すればそれはそれで立派な理由だ。好きな人と同じ高校に行くため、海外で働きたいから、化学が好きだから。どんな些細な理由でも自分にとって納得いく答えがあり、一点の曇りもないのであればそれで充分だ。ただし、再三述べるが、それを他人に押し付けてはいけない。自己の経験は自分の中だけに留めておく、或いは他人に紹介するだけで、それを一般化してはいけない。そんな不愉快なこと、ないでしょう?

そもそも、学問というものは誰かがやらなくてはいけない人間の財産である。微分積分がなければ飛行機は飛ばないし、化学の発展は医療に良い影響を与える。そう言った側面から考えれば、勉強というものは人類に課せられた義務と言えるかもしれない。しかし、肝心なのはそんなところではない。そんな人類レベルではなく、なぜ、この私が、そんなことを学ばなくてはならないのか。という話である。そんなの他の誰か、得意な奴に任せればいいではないか。確かにそれはごもっともだ、恐らくあなたは宇宙開発もしなければ医者にも、きっと研究者にもならないだろう。

あえて言えば私の考えはこうだ。

 

自由になるため。

 

ここでいう自由とは、フリーダムではない。人間社会という枠組みに囲われた、誰に迷惑をかけることもないリバティである。人間がこうして、知恵と知識の上に文化を築いてしまった以上、人間は本来の意味で自由に生きることはほぼできない。ルールの上に生活し、他人に迷惑をかけない程度に自由に生活するには、知識が必要で、それは勉強からしか会得できない。こうなりたい、こうしたい、あんな生活を育みたい、理想の自分を想像するとその過程には必ずどこかで勉強が必要になる。また、もう一つ言えることとして確実なのは、そこで得た知識がいつどこで役に立つかわからない。ということである。ケーキ屋さんを開業したい、だから勉強はいらない、そうは思っても、将来ケーキの材料を海外から直輸入するために英語で交渉する場面が来るかもしれない。公認心理士になってカウンセラーとして働きたいから数学は必要ない。そう思っても実際には心理学には統計学が必要で、微分積分が分からないと苦労する。

勉強で培った知識の殆どが、実生活で役立つことはない。ただし、今現在の生活の中で必要な知識や経験が、勉強によって生まれたことであることも認めなければならない。マイナス面にばかり目を向けてはならない。そう言った意味で自由に生きるために、勉強は避けて通れない。もっと言えば、必要なのは、肝心なのは、勉強によって身につく知識などではない。何かを学ぶ、特に自ら何かを学ぶ、考える。その姿勢こそが本当に身につけなければならないことである。知識的、技量的壁にぶつかった時、重要なのはそれを今乗り越えられるかどうかではない。乗り越え方を知っているか、もっと言えば、乗り越え方を学ぶ、身につける力があるかということである。実生活で困ったこと、人生で、仕事で、何かで困ったことが起こった時、それをどうにかする力は、何かを身につけ学ぶことによってしか得られない。そしてその力は、知識が豊富であれば豊富であるほど引き出しに余裕があり、応用が効く。よく、高学歴は仕事では何の意味がない、などという(それこそ自己経験を一般化した)話を耳にするが、それは知識には、それ自体には何の意味もないからである。それを身につける過程にこそ意味があり、その先の知識はただの装飾品、武装にしかならない。そしてその練習こそが、勉強であり、勉強することの意義である、そう、私は考えている。

 

さんざんぱら自己経験の一般化を批判しておきながらこんなことを言うのも憚られるが、最近の社会人、まあ、特に私の周りだけかもしれないが、には意味のない仕事を極端に嫌い、全てにマニュアルを求める人が多いとおもう。

口を開けば、その作業に意味はあるのか、と尋ねる。そんなもの、私に言わせればあなたの考えるべきことでも、知ったことでもない。勉強と同じである。理不尽に思えても、意味がないと思っても、やることだ。その作業が目を瞑っても、頭のブレーカーを落としても出来るようになるまでなって、初めて自分のものになる。ものの本質というものは、そこまで行かなければ理解できない。英語の文法を本当の意味で理解するためには膨大な量の演習が必要なように、仕事にも演習は必要だ。意味のなさそうな仕事や、理不尽な仕事はそう言った社会人としての基礎体力をつける。そしてその努力を惜しむ人が、最近は(僕の周りだけかもしれないが笑)とかく多い。それはやはり、勉強の本質を理解しないまま大人になったからだろう。頭のいい大学を出ればいいのではない。ただ、それを理解した人が高学歴には多いというのも事実であると思う。一見無駄に思える仕事が他で役立つかもしれない、今の知識では理解できないだけかもしれない。現状の、身の回りだけを見て喚き散らかす人間を見ると残念でならない。自分の可能性を減らすだけなのだから。勉強と同じで、仕事だって自分が覚えた後誰かに(主に後輩に)教える時に、無駄だと思ったことは伝えなければいい。それなのに基礎体力をつけることを怠ったまま後輩を持つから、何か聞かれた時に、「わからない」「あの人に聞いて」「調べれば」となる。そして往々にしてそういう人たちは教えるのが下手である。なにせ、自分が演習をこなしていないから、さらには本当の意味で仕事の本質を理解していないから、その仕事の意味も説明できなければ要点も教えられない。だからマニュアルに頼る。

…このまま愚痴を書けば雑記じゃなくて悪口になりそうだ。見苦しくなる前に、この辺で筆を置くこととする。

 

え?そんな大人にはなりたくない?

じゃあ、意味なんか考えずに勉強なさい笑