盛れる

高校の教員をしている、当然職業柄高校生と接することが多い。彼らを見ていると、自分の高校時代を思い出す。私も彼女らのように、若々しく活動的で、活気に溢れていただろうか。

若者言葉と言うものがあるが、その流行り廃れはインターネットの普及とSNSの発達に相まり加速度的に早まっていると思う。若者言葉は①若者が大人になったら使わず、後世の若者が使うもの。(学生言葉)②若者が大人になったら使わなくなり、後世の若者も使わないもの。(一時の流行り言葉)③若者が大人になっても使い続け、後世の若者は使わないもの。(世代言葉)④若者が大人になっても使い続け、後世も世代問わずずっと使うもの。(文化に根付いた言葉)の4つに分類されるが、最近は特に②が多いのではないだろうか。それ程までに流行り言葉の流れが早いように感じる。

メディアが特集するJK語を見ていると意味を知らない言葉がちらほらとあるあたり、自分の加齢と疎さを痛感する。もっとも、その中の言葉は女子高生が流行の発端ではなく、ネット掲示板が生みの親である場合も多いのだが…

 

素人が手軽に写真を加工できるような時代になり、盛る、という言葉と界隈の技術が発展した。この産業の火付け役は間違いなくプリクラ機の技術向上とスマートフォンの普及であろう。より可愛く、目を大きく、肌を綺麗に白く、もはや別人のように写真を撮ることができるプリクラと、擬似的に同じような効果が期待でき、多少の知識があればそれを加工することができるスマホアプリ。援助交際パパ活と言い換え、写真加工、もとい実物詐欺を、盛る、と言い張る。なんだかマイナスイメージのある言葉を言い換えているだけにも感じるが、流行ってしまったものは仕方がない。女子高生に頭の固い老人だ、と思われるのはまだ嫌なのでたまに流行語を勉強するのだが、そうなってしまってはもう流行りの視点から言えば本末転倒であろう。

 

他学年の教員が、行事中の生徒の写真をラミネートして廊下に貼ったところ「この写真は私は盛れていない。同じ構図のこの写真に差し替えるか、加工させろ。」と文句を言われていた。女性は外に出る時、特にビジネスシーンでは化粧をして当たり前、というかすることがマナー。という風潮になって久しいが、いずれは、女性は他人に見せる写真は加工して当たり前、特に履歴書などの公的な写真は加工をすることがマナー。みたいになるのだろうか。時代の流れについていける気が、今から全くしない。

 

そしてこの、盛る、に私はおじさんとして少し面食らうのだ。女子高生は言う。

 

「先生このプリクラ、あたしめっちゃ盛れてない?」

 

正直に言えばこれはマジでやめろ。反応に困る。例えば

「おー、めっちゃ盛れてる可愛いじゃん!」

と言えば、それはすなわち

「お前はこの写真に比べれば普段はさほど可愛くない」

と同義ではないか。また、

「いやいや、あんまり変わらんかなあ」

といえば、それはそれで妙竹林な空気になる。では、一体どのような反応が正解か。女生徒に尋ねてみたところ

「お、盛れてるね!」

と、一言爽やかに言えばいいそうなのだが、これはおじさん側のキャラによってはさらりと言うのは難しい。いったい、どこかに分詞構文のように便利に使える汎用性のある回答は落ちていないものか。おじさんは思い馳せるばかりである。

2020

2020年がやってきてしまった。私がこのブログに前回記事を投稿したのは2018年の9月だったので、実に1年以上も放置していたことになる。だからと言って別に待たせた人もいないのでそれはいい。開設したブログの投稿頻度を決めるのは開設者である私のはずなのでこれからも特に頻度は決めずに書くことにする。昔を思い出して突然文を書くたくなるのはたまにある、それは、同年代の青春時代にブログを書いていたブロガーたちにしか伝わらないだろう。

 

年も2020年にかわろうかという年の瀬に、久々にテレビをつけたらガキの使いやあらへんでの笑ってはいけないが映っていた。最近ネットで見たところによるとなんでも最近のこの企画は面白くないらしい。どうせ懐古厨の言っていることだと鵜呑みにはしていなかったが、試しに酒を片手に見てみることにした。

すると、これが面白い。別につまらなくないじゃないか。私の第一感想は普通に面白い(普通に、を肯定文に使っていいニュアンスを伝えるのは平成初期生まれからだそうだ)。ところが、ゲラゲラと笑いながら見ていると、違和感に気がついた。確かに、昔ほどは面白くないかもな、と。しかし笑えることには笑えるので最後まで今度は違和感を片手に見続けた。そして、なんとなく私はその違和感の正体が分かった気がする。誰に向けてのものでもないがここにその正体を認めておくことにする。

第一に、罰ゲームがそんなに痛くなさそうなのだ。昔やっていたお尻に吹き矢くらいはやって欲しい。ダイソーで売っていそうなヘナチョコに見える柔らか素材の棒でペシッ!とやるだけなのである。それではみているこっちがあまりに緊張感がないではないか。いや、こちらは笑ってもペナルティはないのだが、人の不幸は蜜の味とでも言うのか、まずあれがもっと痛そうでないと笑えない。出ているメンバーも歳が歳だし、あまりに痛そうにやると苦情が来るのかもしれない。年末なんだからもっとやってくれたっていいのに…。重ねて言うが、私は吹矢押しである。

そして、第二に、というか2つしかないのだが、大物芸能人の扱いがダメだ。もっと、こう、笑いに貪欲にきて欲しいのだが、SMAPなどの大物をどーんとだして、「はい、今ここ笑うとこですよ」みたいな空気が拭えない。当の5人も、「ぷぷ、あはは、そんなん笑うに決まってるやんかー」などと無理やり笑って若干罰ゲームを受けに行っている感がひしひしと伝わってくる。こんな企画、出演ゲストに気を使うようになったら終わりだ。使うならもっとぞんざいに扱って欲しいに、大物側ももっと恥を捨てて出演していただきたい。

 

そんな風に思い馳せながら、世間の良しとするものにケチをつけたり、最新の文化や若者に受けているものを批判したり理解を示さないでいると、老害、と呼ばれ忌み嫌われるが、とうとう私もそのくくりに片足を突っ込んでしまったのではないか、と思ってしまった。

たかだか、テレビ番組1つに対して長々と考察するのもつまらないし、そろそろやめることにする。

 

成人男性の保険

私が初めてブログに出会ったのは中学生の時だった。自分専用のものが下着と歯ブラシくらいしかなかった私にとって、そのインターネット上の空間はまるで自分の部屋のように感じたことを今でも覚えている。平成前半生まれの私はブログの最盛期に青年期を過ごしたこともあり、日記やつぶやきを公開するSNSの先駆けにのめり込んだ。今でこそブログを運営するのはアフィリエイトか芸能人くらいだが、当時は素人がたくさんいた。群雄割拠のブログ時代、色々なジャンルがあるこの業界で、感服される程の文章力も、鋭い考察力も持ち合わせのない私の記事は大抵日記である。日々のことや、周りの愚痴を徒然と書く。大受けすることも、たくさんの人に見られることもなく、数名の常連を相手に記事を書く。私はそんな自分の空間が好きだった。

また、私はブログをたくさん移転した。あの齢は黒歴史が溜まるのである。自分の記事(や恥ずかしいポエム)を読んで、いてもたってもいられなくなると、ブログを移転する。今の高校生たちがtwitterのアカウントを頻繁に変えるのは同じ意味なのだろうかとたまに思いを馳せる。

わからない人にはわからない感覚だろうが、ネットで恋愛もした。顔も知らない文通相手に恋をするのと同じかも知れない。現実でも会うようになった親友もできたし、彼女も出来た。しかし、様々なものを与えてくれたブログだったが、私は大学入学くらいを境にブログを更新しなくなった。理由は、あえていうなら忙しくなったから。でも、高校生の頃だって忙しかったし、大学に入ってからブログを書く時間さえなくなったかといえば、そんなこともない。更新しようと思えば出来ただろうし、厚かましい言い方になるが、私の記事の更新を待っていた人も少なからずいただろう。もっと楽しい趣味を見つけたのかも知れない、大人になるにつれてゲームをしなくなるのと一緒かも知れない。とにかく、私はブログを更新しなくなった。大学入学は19歳、今私は26歳付近なので、7年近くブログから遠ざかっていた計算になる。

 

今、こうしてやもあって、ブログを開設して記事を書いているが、すぐに移転する羽目にならないことを私はひたすら祈るばかりである。