酒と僕1

 

 

僕の話をしよう。

と言っても、僕はいつも僕の話しかしないのだが。

僕の母親は徳島の生まれだ。徳島といえば阿波踊りとすだち。なんにでもすだちをかけて食べる徳島は食べ物が美味しい。いや、四国なんてきっとどの県も食べ物は美味しいに決まっているが、徳島と、ちょっと香川に行ったことがあるくらいだから僕にとって四国の美味しい食べ物はイコールで徳島のものになる。冷奴にもすだち、菜っ葉のお浸しにもすだち、秋刀魚にだってうどんにだって、もちろんすだち。家庭によっては味噌汁にだって絞るし、醤油ラーメンにもかける。あと、個人的にこれが1番のすだちの使い方だと思ってるのが、日本酒にすだち。日本酒好きのあなたなら、きっと理解できないかもしれない。確かに、高い日本酒はそのままで飲んだり、きりっと喉をくぐらすくらいに冷やして飲んだ方がいいと言われるかもしれない。それも、もちろん良い。しかし、すだちを絞った日本酒はその甘さがその酸っぱさによって引き立ち、無限の味わいを見せる。一滴垂らしても、数滴垂らしても日本酒はまた違う顔を見せる。四季折々の日本の季節のように、深く、しかしあどけなく親しみやすく変化する日本酒は、つんとした美人がはにかんだような高揚感を覚えさせる。

日本酒と言えば母は酒豪で、大腸を悪くするまではかなりの量をいっていた。専門はもっぱらビール、芋や米の焼酎、日本酒、ワインといった類だ。昔は赤ワインをよくラッパ飲みしていたものだ。詫びも風情もない飲み方だが、今になって思えば、母にも忘れたいことや、ストレス、心労が多かったのだろう。最近は色々とあって母とは1年ほどあっていないが、元気でやっているだろうか、どうかラッパ飲みなどせずしっぽりとお猪口でも握っていて欲しい。

母に比べて父は下戸で、ビール1杯でも飲めば顔は真っ赤になるし、すぐ寝る。母は泣き上戸だが幸か不幸か僕には遺伝しなかった。僕は母の酒の強さと父の寝酒体質を遺伝したと思う。なんともいい具合に授かったものだ。その下戸の父は母にほとんど一目惚れして口説いたそうだ。母に言わせれば、君と結婚できなきゃ死ぬ。と泣き落とされて仕方なかったのよ。という事情らしいが、母の方がその気だったかどうかは当時の2人にしかわからない。2人の出会いは仕事を通じて、、ということらしい。父は着物の会社。母は別会社でデザイナーみたいなことをしていて、もちろんその類の仕事で出会ったそうだ。酷くかっこつけの父は、自己紹介で自分はルパン三世に似ているのよく言われる。と言ったとか。我が父ながら恥ずかしさに表情筋が消え失せる。しかし、およそ二十も年上の父が母に相当入れ込んでいたのは事実のようで、結構式当日まで年齢を10程サバ読んでいたらしい。式場で大喧嘩したと記録にあったが、成田離婚でもされたら私は誕生しなかったということになる。こんなことを奇跡というのは烏滸がましいが、世の中というのはバタフライエフェクトのように変化するものだとつくづく思う。

かくして4人兄弟の2番目として産声を上げた僕はすくすくと育ち、母親がベロベロに酔っ払うのを目に焼き付けながら高校生になった。

これは僕の持論だが、現代日本において若者の酒とタバコは入口が大体において同じである。特に、早くからやる奴に限っては100%と言って差し支えない。格好つけたい。これに尽きる。当の僕としても日頃からどう格好つけるかばかり考えて学生時代を過ごした。朝起きたらワックスでガチガチに髪を固め、ローファーのかかとを踏み、下着が見えるくらいズボンを下げてはいたものだ。1日のうち半分くらいは女子のことを考え、もう半分はエロいことを考えていたと思う。まあ、年頃の男子なんて全員そんなものだろうけど…。

そんなことで、背伸びのしすぎでもはやバレリーナのようになっていた僕は高校生の頃には母に頼んでビールを飲んでは周りに自慢していた痛い学生であった。あの頃にTwitterがなくて本当に良かったと心の底から思う。あんなもの高校時代の僕がもったら黒歴史量産マシーンと化していただろう。多分、「来週は試験!みんな頑張ろう!」などと呟いて写真を上げては、その隅っこ、勉強机の端にビールの缶を写り込ませる。くらいの芸当は軽くやっていたと思う。まあTwitterなんてなくても日常の学校生活で「昨日飲みすぎてツレーわ…」と、本当の意味で呟いていたので結果痛さに変わりはないのだが…。学生時代からの友人が極端に少ない僕だが、それも納得の厨二具合である。結局、あの頃の自分があまりにもかっこ悪かったと気がついたのは、それから随分と時が流れてからだった。

今の僕が、あまり背伸びせず等身大の自分を晒せる人に魅力を感じるのは、自分にないものを持っているからだろう。結局今の僕はあまり成長していないと思う。きっと、これは死ぬまで続くのだ。

(2に続く)