「R」続・形ないものに真理は宿る

男は結局、おっぱいには勝てない。

 

こう、つくづく思うのである。どんなに私が面白いテキストを書いたところで、たわわなおっぱい1つに(2つに)惨敗するんだろうな、というのが正直なところだ。時の総理大臣だって、外交関係や特別給付金をどうとか、日本のために尽力してどうのこうのといってはみても、おっぱいの前では無力である。目の前の乳首に吸い付き、揉み、童心に帰るのだ。これは一つの仮説に過ぎないが事実、巷に存在すると思しき噂があるYouTubeなる界隈では、生で見せてもいないのにおっぱいYouTuberが蔓延っている。料理系おっぱいYouTuber、ヨガ系おっぱいYouTuber、ゲーム実況系おっぱいYouTuber、ピアノ系おっぱいYouTuber、その数は無量大数的に増え続け、常に高水準の需要の元支えられ続けている。その法悦な乳房から繰り出される映像は、顔も見えていないのに男の再生数を掴んで離さない。一昔前なら考えられもしなかった事実である。

なんだまたおっぱいの話か…。読むのやめよう。

御仁、しばし待たれよ!いや、おっぱいの話には違いないのだが、古い諺もこう説く。急いては事を仕損ずる。そう早急に物事を判断するのは良くない。一旦全部お読みになってから「なんだ、結局おっぱいの話だったじゃないか」そう、言って欲しい所存だ。

 われわれも種の存続、或いは繁栄を担う21世紀の漢であるが故、その営み相手の異性を苦しいかな、選ばなければいけない(我々が選ぶとき、彼女たちもまた同じように我々を選んでいることはこの際棚に上げておく)。つまり何が言いたいかといいますと、僕たちも雄ですから、異性の容姿や外見に関しては一人一人しっかりと自分の好みがあるということです。

目が大きい人がいい、くびれのある人でないと嫌だ、豊満なバストをブルゴーニュ地方に実らせるお人がいいとか、そういった類のことを複数個条件を付けて所持しているわけです。しかしながら、多感な時期を過ぎ、ゆっくりと大人の階段を上った僕らは残酷にも「容姿に関して理想の異性をこの手にすることはできない」そのことを悟ってゆくのである。いつだって現実は生温く、そして人生は実に雑多な色をしていた。そりゃ、顔で売れていたり、お金が腐るほどあったりなどすれば、ある程度より取り見取りということにもなるのであろうがそれでも必ず自分のものにできるというわけではない。さすれば我々凡人の域を例え1ミクロでも踏み出でない一般ピーポーの僕らはことさら手に入れることなどできない。現実を受け入れるしかないのである。

なんですって?女性を物みたいに言うな?今そんな話は一切していないし女性蔑視がどうとかいうのであれば僕のブログなんて当の昔に打ち切りになってる。ブログなんて管理人のマスターベーションみたいなもんだからフジテレビよろしく嫌なら見なければいいのだ。互いに嫌な思いを募らせる前に今すぐ回れ右するべきである。

 

兎にも角にも、理想郷の実現はそれはそれとして置いておいて、僕らは(女性もそうだろうが)結局のところ住めば都を実践するほかない。すなわち、少しでもパッションに引っかかる何かがあれば、何か一部分だけでも欲情の鍵盤をかき鳴らす何かがあればそれでいいとするのである。B'zの稲葉さんも「愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに」「もしそれが君のほんのイチブだとしても何よりも確実にはっきり好きなところなんだ」そう、歌っている。

100年の恋も冷める瞬間というものが世の中には存在してしまうが、これに耐え得るほど、そんなことどうでもよくなるほど相手のことを好きでいればいいというだけの話である。誰しもが経験があるこの瞬間、後々になって熟慮してみれば簡単で、如何に浅はかな話であろうか。何を隠そう私も、学生時代好きだった女の子の部活姿を見て好きでなくなったことがある。彼女は女バスだったのだが、シュートフォームがどうも気持ち悪い。特に、それ以外に外見や容姿に欠点はなかったし、性格も、まあ、軽く接している分にはとても好印象だった。ただ、バスケットボールのシュートフォームが気持ち悪いというだけで好きでなくなってしまった。なんとなく覚えのある人がいるのではないか。箸の持ち方、歩き方、笑い方、何でもない、その人の本質を語るにはどうでもよすぎる細かい所作がどうも気になってしまって好きでなくなってしまう。結局、そこまでその人のことを好きでないだけなのだ。要するに、とても長い枕となってしまったが、私が言いたいのは痘痕も靨ということである。

この記事の前に私は、おっぱいはそこに存在するだけで素晴らしい、という旨の記事を書いた。書いただけでは意味がないが、私は常々ディベートの際には核の主張を声高々に説いて回っている。琵琶法師と呼んでほしい。しかし、該当の記事を読んだ知人女性は悲しそうにそれでも私はこの胸をどうにかしたい・・・。あなたの言っていることはただの詭弁、机上の空論よ。バカ!!短小!!と言わんばかりの表情を落としていた。

うろたえるな!短小だが勃ちは良い!・・・気持ちはわかる、ただ、僕の主張も変わらない。つまるところ、配られたカードで勝負するしかないのだ。そりゃ、僕にだって思うものはある。例えば、おっぱい界隈でいえば、乳輪は小さい方が良い、という主張である。僕は積年これは男の総意だと思っていたがどうやら違うらしい。昔独自のアンケートを取ったところ、乳輪小さい派は6割ほどにとどまってしまったのだ。これはいったいどういうこt・・・いや、脱線しそうである。男→女の乳輪問題について述べることは別の機会にゆっくりと譲ることにしよう。とりあえず、今知っておいてほしい定義は、乳輪は大きいほうがいい、という男性と乳輪は小さいほうが法悦、という男性は見分けがつかない。ということである。では、女性諸君はどうすればいいか。半丁賭博よろしく、脱ぐまでわからない賭けに出るしかないのか。そういうことではない。もう恋に恋する淡い時代は終焉を迎えている。僕らは大人になり、俯瞰的に恋愛をすることができる。つまり、あなたのおっぱいが極端に小さかろうが、それに比べれば乳首が大きく全体のバランスで見ればおかしかろうが、乳輪が予想より大きかろうが、そのすべてを愛しぬく自信がある。これは真実の話だ。とにかく、僕は女性のその着物をはぎ取った時乳輪が小さいと愉悦的に楽しむことができるのだが、たとえ僕の愛した女性の乳輪が500円玉よろしく、なんならマンホールを連想させるような出で立ちだったとしても、僕が本当にその女性を愛していたのであれば、乳輪ごと愛そう。そういう思いでいる。ということなのだ。何度も言うが、生まれ持ったこの体、そうそう変えられるものではない。あなたの身体的コンプレックスが原因で別れてしまったとすれば、物言いはひどく端的になってしまうが、それだけの愛だったということである。どーんとぶつかっていきなよ。

 

しかしそれに際して、ここまで飽きもせず読んでくれたあなたは、身体になにがしかのコンプレックスを抱えていると思うのだけれど、それは例えば乳首の先端からどうしてもカメムシの匂いがする。とかそういうもので構わないのだけど、とにかくその時分的欠点が有事の際、白日の下に晒されてしまった、けれどありのままの姿で彼に退治しようとしたその時。どうかこれだけは約束してほしい。こういってほしいのだ。

 

「だめ・・・。みないで・・・。」

 

これだよこれ。これこれ。わかる?いや、わかってほしい。その姿勢があるだけでメンズ側としてもいくらでも対処の仕方があるってもんですよ。

たとえ乳首がサファイア色だったとしても

陰の毛がアマゾンで、命の泉が秘境にあったとしても

生板なんてもんじゃなくもはやクレーターだったとしても

一言、そういってくれればそれでイッツオーライ!なのである。

「だ、だめ。みないで・・・」

「ばか。そんなの気にするなよ・・・」

分かりますか、これが日本の侘び錆び、和の心です。ところが、これがちょっと気を抜いていて乳首に一本アスパラガスのような毛が生えていたとして、それはそれでいいんです。ただ、それをいざ確認してしまったときに「生えてますが何か?」という態度をとられてしまってはこちらとしても「なんだこいつ、もう女捨ててんのか・・・」と早急なオピニオンに成らざるを得ない。それはそれは、お互い損ではありませんか?

もちろん、羞恥の事実が白日の下にあられもない姿で放り出されたとき、無理に平静を保とうとするその機微自体は理解に値する。誰にだって弱さを見せたくない。そんな感情はいたって自然である。しかしこの状況に至っては、それをしてしまうことはマイナス方面にしかモーメントは働かない。心が動揺するのであれば、正直に、あなただけしか見せないという一面を、赤面しつつ見せつけ「だめ・・・」というのが上策というものである。そしてそれは、普段のあなたからギャップがあればあるほどに、面白いほどに効果的なのである。

 

長々とつづってしまったが、理想は理想として抱きつつ、我々は、泥臭くも常に残酷で冷たい現実に向き合わなければならない。理想への道は険しく、到達できないのだから。今ある乳房で!陰茎で!勝負するしかないのである。別に僕が短小だからこのような話をしているのではない。そんな、慈悲を与えるような生暖かい目で見ないでくれ。自分の短小は、自分が一番わかっている。ゆえにこの話はブーメランのように私に突き刺さってやまない。ああ、どうにかしたいなあ。