駄文

人には必ず岐路というものが訪れる、足も手も、目も人間には2つずつついているが、別れて進むことはできない。目の前に岐路が現れたら、我々にできることはその中から進むべき道をたったひとつ決めることだけである。ひとつを決めるということは、残りを捨てるということに等しい。道の前で「ちょっと待って、今考えてる」と言ってみても岐路はその形態を変えることはない。先送りにはできても、逃げることはできない。そして、それは誰にでも強制的に訪れる。ひとつは受験だっだり、就職だったりと大きなものから、なんてことのないものでいえばファミレスのメニューの選択から友達のSNSのいいねまで、人生は大小様々な岐路の連続である。

 

私にはかつて、結婚しようと思っていた女性がいた(妄想ではない)。その女性とはなかなかの年数お互いを知っていて、また、それとほぼ同じ年数だけ愛を分け合った。私は元来優柔不断である。ちょっといいレストランに行けばすぐAコースかBコースの二者択一で無限に悩む。そして、最終的に投げやりに選択したうえで後から後悔する。私はその幼さからか気づいていなかったが、いや、正しくは目を背けていただけというのが正しい表現かもしれないが、その女性との岐路を先延ばしにし続けていた。結婚という岐路を。そして私はさんざん分かれ道に気が付かないふりをして、彼女を傷付けた挙句、やっとふたりで同じ道に進もうと決めたと思ったのに、その道に一歩踏み出したところで進めなくなってしまった。そりゃあ、具体的に言えば言い訳は山ほどある。そもそもは、家族間挨拶の段階でこじれてしまい、私と私の家族が険悪になったことに起因する。しかし、そんなことは言い訳にしかならない。とってつけたようなしがない言い訳なのだ。正直に言えば、今の自分の稼ぎや、一緒に暮らすという意味、相手の人生の残りほとんどに自分が影響することなどを考えたうえで私は、動けなくなってすべてを投げ出したのである。きっかけは私の家族の所為かもしれない。とはいえ、そんな障害は自分の気持ちがしっかりと固まっていれば乗り越えられただろう。私はきっと中途半端なまま分かれ道を選び、進むことを放棄しただけなのである。相手をこれ以上ないほど傷つけたし、なんと謝っても取り返しはつかない。彼女とは昔私が運営していたブログを通して知り合った。どんなに短く、中身のない記事をアップロードしても、若さゆえ痛々しく見るに堪えない駄文を載せても、彼女はどんな記事にもコメントを残してくれた。青春の形は人それぞれあれど、私はその日々が楽しく、かけがえのないものであった。最近、人知れずブログを再開したのは、彼女に対する懺悔のような思いがあったのかもしれない。

今でも電話の、気丈に振舞おうとする彼女の最後の震えた声が耳に響いて拭えない。

 

その声を、僕は一生忘れることはないだろう。