「R」続・形ないものに真理は宿る

男は結局、おっぱいには勝てない。

 

こう、つくづく思うのである。どんなに私が面白いテキストを書いたところで、たわわなおっぱい1つに(2つに)惨敗するんだろうな、というのが正直なところだ。時の総理大臣だって、外交関係や特別給付金をどうとか、日本のために尽力してどうのこうのといってはみても、おっぱいの前では無力である。目の前の乳首に吸い付き、揉み、童心に帰るのだ。これは一つの仮説に過ぎないが事実、巷に存在すると思しき噂があるYouTubeなる界隈では、生で見せてもいないのにおっぱいYouTuberが蔓延っている。料理系おっぱいYouTuber、ヨガ系おっぱいYouTuber、ゲーム実況系おっぱいYouTuber、ピアノ系おっぱいYouTuber、その数は無量大数的に増え続け、常に高水準の需要の元支えられ続けている。その法悦な乳房から繰り出される映像は、顔も見えていないのに男の再生数を掴んで離さない。一昔前なら考えられもしなかった事実である。

なんだまたおっぱいの話か…。読むのやめよう。

御仁、しばし待たれよ!いや、おっぱいの話には違いないのだが、古い諺もこう説く。急いては事を仕損ずる。そう早急に物事を判断するのは良くない。一旦全部お読みになってから「なんだ、結局おっぱいの話だったじゃないか」そう、言って欲しい所存だ。

 われわれも種の存続、或いは繁栄を担う21世紀の漢であるが故、その営み相手の異性を苦しいかな、選ばなければいけない(我々が選ぶとき、彼女たちもまた同じように我々を選んでいることはこの際棚に上げておく)。つまり何が言いたいかといいますと、僕たちも雄ですから、異性の容姿や外見に関しては一人一人しっかりと自分の好みがあるということです。

目が大きい人がいい、くびれのある人でないと嫌だ、豊満なバストをブルゴーニュ地方に実らせるお人がいいとか、そういった類のことを複数個条件を付けて所持しているわけです。しかしながら、多感な時期を過ぎ、ゆっくりと大人の階段を上った僕らは残酷にも「容姿に関して理想の異性をこの手にすることはできない」そのことを悟ってゆくのである。いつだって現実は生温く、そして人生は実に雑多な色をしていた。そりゃ、顔で売れていたり、お金が腐るほどあったりなどすれば、ある程度より取り見取りということにもなるのであろうがそれでも必ず自分のものにできるというわけではない。さすれば我々凡人の域を例え1ミクロでも踏み出でない一般ピーポーの僕らはことさら手に入れることなどできない。現実を受け入れるしかないのである。

なんですって?女性を物みたいに言うな?今そんな話は一切していないし女性蔑視がどうとかいうのであれば僕のブログなんて当の昔に打ち切りになってる。ブログなんて管理人のマスターベーションみたいなもんだからフジテレビよろしく嫌なら見なければいいのだ。互いに嫌な思いを募らせる前に今すぐ回れ右するべきである。

 

兎にも角にも、理想郷の実現はそれはそれとして置いておいて、僕らは(女性もそうだろうが)結局のところ住めば都を実践するほかない。すなわち、少しでもパッションに引っかかる何かがあれば、何か一部分だけでも欲情の鍵盤をかき鳴らす何かがあればそれでいいとするのである。B'zの稲葉さんも「愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに」「もしそれが君のほんのイチブだとしても何よりも確実にはっきり好きなところなんだ」そう、歌っている。

100年の恋も冷める瞬間というものが世の中には存在してしまうが、これに耐え得るほど、そんなことどうでもよくなるほど相手のことを好きでいればいいというだけの話である。誰しもが経験があるこの瞬間、後々になって熟慮してみれば簡単で、如何に浅はかな話であろうか。何を隠そう私も、学生時代好きだった女の子の部活姿を見て好きでなくなったことがある。彼女は女バスだったのだが、シュートフォームがどうも気持ち悪い。特に、それ以外に外見や容姿に欠点はなかったし、性格も、まあ、軽く接している分にはとても好印象だった。ただ、バスケットボールのシュートフォームが気持ち悪いというだけで好きでなくなってしまった。なんとなく覚えのある人がいるのではないか。箸の持ち方、歩き方、笑い方、何でもない、その人の本質を語るにはどうでもよすぎる細かい所作がどうも気になってしまって好きでなくなってしまう。結局、そこまでその人のことを好きでないだけなのだ。要するに、とても長い枕となってしまったが、私が言いたいのは痘痕も靨ということである。

この記事の前に私は、おっぱいはそこに存在するだけで素晴らしい、という旨の記事を書いた。書いただけでは意味がないが、私は常々ディベートの際には核の主張を声高々に説いて回っている。琵琶法師と呼んでほしい。しかし、該当の記事を読んだ知人女性は悲しそうにそれでも私はこの胸をどうにかしたい・・・。あなたの言っていることはただの詭弁、机上の空論よ。バカ!!短小!!と言わんばかりの表情を落としていた。

うろたえるな!短小だが勃ちは良い!・・・気持ちはわかる、ただ、僕の主張も変わらない。つまるところ、配られたカードで勝負するしかないのだ。そりゃ、僕にだって思うものはある。例えば、おっぱい界隈でいえば、乳輪は小さい方が良い、という主張である。僕は積年これは男の総意だと思っていたがどうやら違うらしい。昔独自のアンケートを取ったところ、乳輪小さい派は6割ほどにとどまってしまったのだ。これはいったいどういうこt・・・いや、脱線しそうである。男→女の乳輪問題について述べることは別の機会にゆっくりと譲ることにしよう。とりあえず、今知っておいてほしい定義は、乳輪は大きいほうがいい、という男性と乳輪は小さいほうが法悦、という男性は見分けがつかない。ということである。では、女性諸君はどうすればいいか。半丁賭博よろしく、脱ぐまでわからない賭けに出るしかないのか。そういうことではない。もう恋に恋する淡い時代は終焉を迎えている。僕らは大人になり、俯瞰的に恋愛をすることができる。つまり、あなたのおっぱいが極端に小さかろうが、それに比べれば乳首が大きく全体のバランスで見ればおかしかろうが、乳輪が予想より大きかろうが、そのすべてを愛しぬく自信がある。これは真実の話だ。とにかく、僕は女性のその着物をはぎ取った時乳輪が小さいと愉悦的に楽しむことができるのだが、たとえ僕の愛した女性の乳輪が500円玉よろしく、なんならマンホールを連想させるような出で立ちだったとしても、僕が本当にその女性を愛していたのであれば、乳輪ごと愛そう。そういう思いでいる。ということなのだ。何度も言うが、生まれ持ったこの体、そうそう変えられるものではない。あなたの身体的コンプレックスが原因で別れてしまったとすれば、物言いはひどく端的になってしまうが、それだけの愛だったということである。どーんとぶつかっていきなよ。

 

しかしそれに際して、ここまで飽きもせず読んでくれたあなたは、身体になにがしかのコンプレックスを抱えていると思うのだけれど、それは例えば乳首の先端からどうしてもカメムシの匂いがする。とかそういうもので構わないのだけど、とにかくその時分的欠点が有事の際、白日の下に晒されてしまった、けれどありのままの姿で彼に退治しようとしたその時。どうかこれだけは約束してほしい。こういってほしいのだ。

 

「だめ・・・。みないで・・・。」

 

これだよこれ。これこれ。わかる?いや、わかってほしい。その姿勢があるだけでメンズ側としてもいくらでも対処の仕方があるってもんですよ。

たとえ乳首がサファイア色だったとしても

陰の毛がアマゾンで、命の泉が秘境にあったとしても

生板なんてもんじゃなくもはやクレーターだったとしても

一言、そういってくれればそれでイッツオーライ!なのである。

「だ、だめ。みないで・・・」

「ばか。そんなの気にするなよ・・・」

分かりますか、これが日本の侘び錆び、和の心です。ところが、これがちょっと気を抜いていて乳首に一本アスパラガスのような毛が生えていたとして、それはそれでいいんです。ただ、それをいざ確認してしまったときに「生えてますが何か?」という態度をとられてしまってはこちらとしても「なんだこいつ、もう女捨ててんのか・・・」と早急なオピニオンに成らざるを得ない。それはそれは、お互い損ではありませんか?

もちろん、羞恥の事実が白日の下にあられもない姿で放り出されたとき、無理に平静を保とうとするその機微自体は理解に値する。誰にだって弱さを見せたくない。そんな感情はいたって自然である。しかしこの状況に至っては、それをしてしまうことはマイナス方面にしかモーメントは働かない。心が動揺するのであれば、正直に、あなただけしか見せないという一面を、赤面しつつ見せつけ「だめ・・・」というのが上策というものである。そしてそれは、普段のあなたからギャップがあればあるほどに、面白いほどに効果的なのである。

 

長々とつづってしまったが、理想は理想として抱きつつ、我々は、泥臭くも常に残酷で冷たい現実に向き合わなければならない。理想への道は険しく、到達できないのだから。今ある乳房で!陰茎で!勝負するしかないのである。別に僕が短小だからこのような話をしているのではない。そんな、慈悲を与えるような生暖かい目で見ないでくれ。自分の短小は、自分が一番わかっている。ゆえにこの話はブーメランのように私に突き刺さってやまない。ああ、どうにかしたいなあ。

「R」形ないものに真理は宿る

 

人間とは、無い物ねだりをするものである。金がない人は金が欲しいと嘆くし、愛に飢える迷い人は嘘偽りない愛を求めて狂う。背の低い人は厚底の靴を買い、髪のない人は21世紀をリーブし、崇め遣う。その全ては個人の幸福度に係るのだが、それは主観と客観で大きく異なる。所有欲とその結果得られた実益と、幸福度は必ずしも一致しない。金持ちに卑しい人がいる様に、貧乏人に豊かな心胆を持つ人がいる様に。つまるところ、自分がそれでいいと、幸福であると心底感じることに人生の意義があるのだ。しかし私も皆々様も、そんなことはわかっていても、自分に足りないものを求め、彷徨い、安堵できる何かにしがみつこうとする。それもまた人生の1つの真理である。こんなことを、昔どこかのブログで読んだ(この記事はそのパロディである)

 

私の場合、愚息が他の一般優良男児と比べ(当社比)ちょいとばかし小さいと言う悩みがある。若い頃は週刊少年ジャンプの裏の息子強制ギプス(巨人の星ではない)を本気で試そうとしたし、修学旅行で大浴場にひとたび行けば、何クールか擦って半起立状態で戦いに臨み、見栄を張りまくったものである。また、あまりに悩みすぎて、めちゃくちゃタイプの後輩と彼女の家で行為に及んだところ

「早く…我慢できない…先輩のが欲しいです…。」

「えっと、もう……ジョイントしてるんだけど…?」

「え…?ア!アン!キモチイ!!」

「……」

と言う悪夢を見て苛まれると言う事もあった。

しかし、そんな私のことは今どうでもいい。小さいといえば、悩むのは女性も同じ。むしろ人目につくと言う意味では男性よりシビアかもしれない。端的に言えば、乳房関係の話である。えー、失礼。いくら、見る人がそんなに多くないとは言え不特定多数の人間がフリーダムに閲覧できるインターネッツにテキストを垂れ流していることを忘却していた。少し厚めのオブラートに包んだ方が良いかもしれない。とどのつまり仕切り直せば、おっぱいの大きさの話である。

 

大きすぎてもダメ、小さくてもダメ、ときたもんだ。男からすれ、小さいことに頭を悩ますならまだ理解も示すが大きいことに文句を言うのは余りに理不尽ではないか。しかしまあ、あまりに身長が高い人は自分の長身に苦言を呈し、金持ちも人付き合いに苦労すると吐露する。きっと、根本は同じなのだろう。小さきゃ小さいで色気がないと嘆き、大きければ大きいで似合う服がないと呆れかえる。非常に繊細、かつディープな問題だと言わざるを得ない。振り返って我が人生を紐解くと、CからDくらいを自陣に有する方々からはあまり深刻な悩みを聞いたことがない。悩みのバランスがうまく取れているのだろうか。ところがそのさらに前後に陣取りおわす女性からは基本的に高確率で自分のバストに罵詈雑言を浴びせていた。ただ、ただ、デカくなりたい!もう少し小さければよかったのに…。飲み会という鉄火場で飛び交う彼女らの怒号や咆哮はいつだって灼熱の温度であった。気持ちはわかろう。なぜなら人は皆同じ、冒頭に述べた通りだ。ないものを欲しがる。

 

しかしあえて言いたい。おっぱいの大きさなんかで、悩むことはない。差異あれど、いいじゃないか。金子みすゞも言っている。みんな違って、みんないい。そりゃ、こちらとしても女子の胸周り問題に対しては一家言持っている男子がほとんどだ(僕は貧乳が好き)。しかしそれは、スマホで言えばカメラ機能の能力くらいの話でしかない(因みに、僕は貧乳をこよなく愛している)。カメラ機能に全てを委ねてスマホを選ぶ人は………多分そういない。カメラ機能に文句を言いたければ、私が責任を持って対処させていただく所存だ。

 

「小さくて、悩んでます。」

 

大丈夫。古の格言にはこうある。

「揉むほどに、頭を垂れる乳房かな」

僕の記憶違いで、少し違ったかもしれないが、だいたいこんな言葉だったと思う。とにかく、そんなに悩むのであれば、責任を持ってたっぷりと揉ませていただこう。そんな手段だって、ある。

 

「こんなにあっても、サイズの合う下着はないし、肩は凝るのよね」

 

よろしい。ならば肩の方は任せて欲しい。肩叩き券などなくても何時間だって揉ませていただく姿勢だ。そんな僕たちを邪険な目で見てもらっても構わない。それに、下着も心配いらない。遠慮なく僕らの手をブラジャーだと思って試着してくれて欲しい。漢気、その言葉の意味を肌で感じ取っていただければ幸いだ。

 

こう書くと、何も真剣に考えちゃいないじゃないの。と言われてしまいそうだが。それはそうだ。冒頭の僕の粗品の話など女性諸君は理解できないだろうし、僕ら男には申し訳ないがバストの物差し問題は完全には理解できない。悲しいかな、人間は、同じ体験を身をもって会得しなければ、その人の気持ちにはなれない。だから正直に書けば、

「あたしってば胸が小さくて…。Aカップで悩んでるの」

に対する僕の解答は

「ふーん。揉ませろよ。」

が正解となってしまうのである。(繰り返し述べさせて貰えば、僕は貧乳でご飯3杯は食える)わかったフリはできても、結局は、あなたの悩みはあなただけのものなのだ。

 

だから、いいじゃないか。互いに理解などできない。

それでも敢えて一言献上するなら、ひとつ語りかけてみては如何か。自分の胸に対し、己の来し方行く末を――正直な言葉で。

冒頭で男性のサイズ問題について触れたが、決して大きいとは言えない僕のご本尊なので、やはり僕も『もっと大きくなりたい』と思う時期があった。ある日僕は意を決して自分の股間に問いかけた。

「これでいいのか」

もちろん言葉は返ってこず、答は風の中に消えた。ただ、僕はその時 ――27歳の時分―― 初めて自分の本尊に、心で向き合えた気がした。よくよく見れば、小さいながらも生命力に溢れているこの粗品。考えれば27年も苦楽を共にした仲なのである。

「これでいいんだ」

もう一度声をかけた。今度は、確認するように。すると僕の本尊はそれに呼応するようにピクリと動き、そしてまた眠った。僕は慈しみと共にチーン・ポールを一撫ですると、深い眠りに落ちた。


今、僕が気づいたもの、それは『大切なものは既にこの手の中にあった』ということだ。確かに周りの子らに比べれば些か貧相な愛息ではあるが、それでも今日も元気な愛しい我が子。親子関係も良好である。

今、強く思う。無病息災、明るい父子。さて、それ以上に何か必要なものはあるのだろうか?ない、ですよね。

確かに『もし僕の想い人が息子のことを気に入ってくれなかったら…』という不安はある。けれど、その時に『相手が気に入るように自分の息子をスパルタ教育しよう』と思ったとすれば、それは親のエゴだ。醜い見栄である。そうではなく

『ありのままの息子を大事にしてくれる人を探そう』

という、柔らかなマインド。自分を相手に合わせるのではなく、身の丈に合った相手を見つけること――きっと、それが何よりも大事なのではないでしょうか。

同じようなことは女性にだって言えると思う。向上心を抱くことは尊いけれど、ありのままの自分を誇ることもまた大切なことだ。だからその意味で、もう一度ご自身のサイズと向き合ってみては如何だろうか。

世の中には様々な尺度があり、価値観は千変万化していく。それは止めようがない。けれど、確固たる自分の信念、あるいは絶対的な信条めいたもの――それを構築することは決して不可能なことではない。

移ろいやすい世の中にあって、自分がどの立ち居地にいるべきか?あるいは、居たいのか?それは常に意識されるべき事柄なのかもしれない。

Ashi.Dumerna

名探偵コナンが何故こんなにも人気を博すのかというと、もちろんその鬼気迫るストーリーが面白く、謎解きの爽快感が一押しだからというのもありますけれど、1つに我々人類が百年河清を俟ってもなし得ることのできなかった強くてニューゲームを実践しているからである。と、いいたい。知識や経験を持ち越したまま過去に戻れれば・・・。誰もが一度は思い描いては、過去に残した後悔を募らせ悶々とした時間を過ごしたとこがあるんじゃ?あの時の一言がなければ違う結果に…。あの学校に行けばよかった!人生の分かれ道に戻りたくなることは多々ある。

小学生に戻って英検に合格したり、高校レベルの問題をすらすら解く。これもまた一興。羨望の眼差しを受けつつ、神童の名を欲しいがままに薔薇色の人生を歩む。馬鹿馬鹿しい?たられば?じゃあなんだ、この考えは軽佻浮薄か!?軽慮浅謀とでもいいたいか!?嗚呼、強くてニューゲームしたいですなあ。

しかし我々はその一方で、精神的には1歳たりとも若返りたくなどないという思いも持つ矛盾した悲しい生き物でもある。すなわち、今現時点での精神状態が、常に生まれてから一番良い、と言うことにしている。

 

「オールとか?もう出来ねーよな。なんつーか、あれは若さの特権だったよね笑

大学生にもなって、俺らも年取ったよなあ笑

あ、じゃあ、お前はこっちか。お疲れ〜」

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「かぁ〜。大学生のお疲れーほどイラつくもんはないっすよね。お前ら働いてんのかって笑

自分の金で家賃払ってから言ってほしいっすよね笑 ま、俺らも?コールとか?やってる時代ありましたけどね?

ところで、今日この後どうします?ま、ここは一つ。キャバクラとか!?行っちゃいます!?」

食物連鎖のように若気の至りは続く、いくつになっても人は過去を振り返り、卑下し、自虐し、ときに反語的に羨んで自分の代わり様を振り返る。我々はそれを成長と呼んでいるわけだ。

俯瞰的に見ればそれらは大体において成長などしていない。周りは成長したと疑わないあなたや私を、別に今だって…?と、冷ややかに思っている。過去の選択肢の変更によって今の自分の立ち位置に差異が出るかは理解しかねる。ある小説の一節はこう説く

 

「どうせあなたはどんな道を選んだって今みたいな有様になっちまうんだ。」

 

たらればに終止符を打つ暴論ではあるが、これは時に丸ごと正しいと思わせる説得力がある、根拠はないけれど。過去に戻ったとして、何かを変えたとして、自分が今と決定的に異なる違う何者かになりうる可能性を積極的に肯定してはいけない。

可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。君は、パイロットになれるか?バニーガールになれるか?アイドル歌手に、必殺技で世界を救うヒーローになれるか?七つの海を股にかける海賊になれるか?ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか?

 

なれるかもしれない。

しかしありもしないものに目を奪われてもどうにもならない。

大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の他の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。

バラ色の人生など存在しない。なぜなら世の中はバラ色ではない。実に雑多な色をしている。

 

後悔するためだけに過去を振り返るべきではない、これから起こる未来を変えようと思うなら、自分を認める意外に他ない。先日私は知人女性の寝顔を見る機会があったのだが、こんなことに思考を走らせながら、過去を振り返った。

 

何歳だったか覚えていないが、その日私は性欲に非常に忠実だった。ワンナイトできるかどうかはいかに積極的にバットを振るかどうかにかかっている。若かったこともあり私はどんなボール球でもバットを振るつもりでいた。いわゆる街コンというものに参加していたのだが、その日私の目の前に投げ込まれた球は丁度打ちごろのど真ん中ストライクであった。端麗な顔立ちに未亡人のような幸の薄い雰囲気をそこはかとなく醸し出し、深い黒のワンピースを纏ったその女性は比喩表現でなく間違いなく私のストライクであった。しかし、しかしね、男性諸君にならわかってもらえると思いますが、こういう日はちょうどいいボール球のほうが振ってやろうっていう気持ちになるんです。容姿端麗は一回見送るんですよ。野球と一緒です。そう、なりませんかねえ!?セクシー女優はちょいぶさがいいのと一緒ですよ。或いは、たまに自分の趣味嗜好から若干逸脱したやつでいきたいのと同じ。今日は、外人ものじゃないとダメなんだ!!しかもやたらスポーティな音楽が流れてるやつ!!みんな、あるでしょう?女性はどうなんですかね。なんか今日はどうなっちゃってもいいかな♡って日にジョニーデップみたいなゴリゴリのイケメンが相手だったら開きかけの股、一旦閉じません?そういうことですよ。

兎にも角にも、枕が長くなりましたが、とどのつまりひとしきり彼女とお酒を楽しんだ後、たぶんなんかそのままいけそうな雰囲気もありつつも気が引けた私はそのまま岐路についてしまったのです。連絡先くらい聞いておけばよかった。

 

過去は振り返ってはいけない。どんな選択肢を選んだとしても今の自分があるのだということ、そのありのままの自分を認めなければならない。その過程はどうであれ、今の自分がここにあるのだ。

 しかし、そんなことは分かったうえで、家庭が結果に与える影響の少なさを自覚したうえで、それでも、いや、なおさらというべきか

 

網から逃がした魚はことのほか大きかった。

 

過去に、戻りたいですなあ。

「R」その存在意義について

今からする話はとっても破廉恥な話なのでね。18歳未満の方の閲覧は自己責任でお願いしますね。

 

子供というものは非常に残酷なまでに無知で純粋なものである。生きてきた年数の短さから知識と経験の蓄積もままならず、その結果思考は軽慮浅謀、無知の知もない行動は向こう見ずな自信に裏付けられている。結論、ま、今はわからないよね。と大人は子供に皆そう思うのである。子供には子供の意見があり、大人には大人の意見がある、とはいえ成長と共に時間と一緒にそんな頃の浅はかな世界は忘れてしまうんだけれど、結局人は今の自分という眼鏡を通してしか世界を見ることができない。

さて、私は小学生の頃担任の男の先生に尋ねたことがある。「先生、男の乳首は一体なんのためについているというのでしょうか。」ははん、何お前はバカなこと言ってるんだ、と今であれ一蹴できるが、かつての私にそこまでの知識と経験はなかった。先生があのときなんと言ったかは既に朧にもない。ただ、どう思っていたかは鮮明にわかる。

「おま、そんなん有事の時に乳首がなかったらどうすんだよ!??ああ!!?肩甲骨でも舐めてもらえってか?!」

そうです。さあ、お待ちかねのセックスの話だよ。修学旅行前に女子だけに話があるから男子は先に教室に帰ってて!と言いたいけどごめん。男子も女子も今日は帰りなさい。お父さんとお母さんに大事な話があるから。

先日、このブログにて2時間だけ公開した、愛撫と寸止めの相関及び消えた年金について、という現代日本には避けて通れないタブーを扱った記事をご覧になった方はいるだろうか。その記事では私、僭越ながら男性という立場を取りつつも、その儚さと愚かさゆえ起こるギャップについて女性側にある定数の理解と男性の落ち度を大幅に認めて筆を取っていた。しかし、あえて私今回は徹底的にジェントルメン側からの立場で物言いさせていただきます。

 

皆さん、時に最近、乳首の方は如何お過ごしか。刺激の方、与えてますかな?

 

私の方はと言いますとここ最近はすっかりご無沙汰しておりますので、あんまりあの子らのこと、構ってやれとらんのですわ。反抗期なのかね。最近は服の下からの主張もだいぶ激しくなりまして、これから夏だっていうのに、子は鎹とはいいますけど…もう少し大人しくなってくれませんかね…。

枕が長くなったが、処憚らずに申し上げると、本日は乳首責めについて討論していきたい。この議題を掲げるに差し当たって、恐らくはまず、関して男女の意識の差を述べておくべきだろう。いつも重ね重ね申し訳ないが、この分野においては完全に私の経験と、外部知識による独断で語らせていただく。

 

まず、男性から女性に対して行う場合だが、これについては我々メンズに生まれながらに備わっている本能、生物科学に基づく遺伝子記憶のレベルで必ず行われる。なんなら個体によっては1日中妄執している奴もいる。女性の乳首を有事の際に触る(味わう)というのは根底の部分で義務の近傍にある。なぜ女性の乳房を求めるのかは、誰一人として説明できないが、求めることだけは確かなのだ。求め方もその方法も人それぞれだが、みな思い思いに目前のふくらみを愛で、慈しみ、或いは感謝する。我々は、ソウルの部分で繋がっているのだ。それに対して女性から男性に行われる場合はどうか。現状、これは、ほとんど任意の行動、女性国民一人一人の判断と思想に委ねられ、方法から時間、強弱まで全てにおいて一任されているといって過言ではないだろう。そんなの、ほとんど施しではないか!我が国における素人男女間に蔓延するその腐った概念、誠に信じがたい。性に対する間違った認識が蔓延って久しいと実しやかに囁かれてから随分経つが、政治家たちは何をしているのかと嘆きが聞こえてきそうである。

ねえ、女子たちはもっと真剣に男子の乳首を責めてくれよ!!!

なんか、ないがしろにしがちじゃないですか?我々だって一人の人間、コンクリートの隙間からタンポポが生えてるように、我々の両胸にも映えてるんですよ、乳首は。なぜ、何の役割も持たないのにそこにあるのか。女子たちは1秒でも真剣に考えたことありますか?!こいつらはねえ、立派なコミュニケーションツールなんですよ。新社会人は飲みにケーションなんかやってる前に乳首ケーションをしなさい。あと、乳首に向かう姿勢にばらつきがあるのもいただけないですね。一番ダメなのはこれ

「あれー?男なのに、乳首でこんなに感じちゃうんだ?」

は?当たり前なんですけど?コナン君が現れると人が死ぬくらいの真理ですが?

この態度は柔らかく言えば万死に値しますね。素直に言えば地獄に行っていただきたい。まず大前提。男で乳首不感な奴は一人としていません!!今日はね、最低、これだけは覚えていってください。よく、男より女のほうが感度がいい、とか言いますけど、乳首に関してだけは違いますから。多分。なんか、そこでマウントは取らなくていいです、もっと真摯に向き合ってください。

あとさらっと流していくやつね。右10秒左10秒、はい、そのあとは棒のほうでしょ。みたいな。もうね。そんなのは車乗ってコンビニ行くのとほとんど変わらないですよ。

右確認、左確認、はい、シフトレバーをDでしょ。

違うでしょうが!!!!!セックスをなんだと思ってるんだ!!コンビニ行くんじゃないぞ!?旅だ旅!!まず旅の始まりと言ったら予定確認からするでしょうが!!!理想はね、服の上からまずは舐っていただきたい。それが予定確認みたいなもんです。あとで、本格的に行くからな!的な。予定確認されると僕らはもうその時を乳首、じゃなかった、首を長くして待つしかない従順な旅行待機者となるわけです。いきなり旅行するのとどこ行くか決めてから行くのじゃ高揚感が違うと思うんですけど如何か?わかる?それから、実際に旅行にいってからも、左右の御乳首への立ち寄り方の差。これね。道の駅じゃないんだよ。ほんとは心の中ではつまらんと思いつつも全員声には出さないで「道の駅ってやつもたまにはいいよね。こう、なんか、風情?禅の氣ってやつ?」みたいな。そういう、形式ばったわびさびみたいなもんじゃないのね。もう具体的に言うわ、メモとって。首都高と東名高速で例えれば、左右の乳首はそれぞれ「海老名サービスエリア」「浜松サービスエリア」に充当しますんで。海老名で中華まん食べて、なんならラーメンも食べて、ゆっくりお土産も買うでしょ?浜松でお茶っ葉とわさび茶漬けの元買って、ウナギのかば焼き食べるでしょ?サービスエリア内のピアノミュージアムもテンション次第ではいくでしょ?その心意気で対峙していただきたいんですね。乳首には。ゆっくり楽しんで(楽しませて)から目的地に向かっていただきたい。決して、トイレ休憩くらいの気持ちじゃあないんですよ。それはだめ。

最後にこれ、人類の持つ最終的な平和交渉に用いられる美技「乳首舐め手コキ」これも全然わかってない人多いですね。この技自体は素晴らしいんです。どれくらいかっていうと、モネの絵画くらいですね。ただ、わかってない人が多すぎる。これ、形だけのレプリカになったとたん何の価値もないんで。なんにせよ、手ばっかりになって乳首がおろそかになる人が多いったらなんの。え??なになに??どっちもやってりゃいいんじゃねぇんですかい?おかみもがみがみちいせぇなあ??江戸っ子魂の淑女諸君はこの名前を100回復唱しなさい。名前なんかどうでもいい?それは違いますよ。7&iホールディングだって三井住友信託銀行だって、合併する前の力関係が合併後に如実に表れているじゃないか。ってーするとどうです?わかります?「手コキ」と「乳首舐め」合併するとどうなってます?「乳首舐め手コキ」でしょうが!!!これ、第三回気候変動枠組条約締約国会議で各国環境省外務大臣が真剣に議論に議論を重ねて決まってる正式な呼称ですから。しっかりと京都議定書にも書いてあります。すなわち力関係は一目瞭然。比重でいうと乳首7、手コキ3くらいの比率でお願いします。その節は、各国皆々様のご強力のもと、大変有意義な議論となりましたことを心より甚謝申し上げ、恐悦至極に存ずるばかりでございます。

これを読んだ皆さんの乳首ライフがより濃密に、またより充実したものとなるよう祈願いたしまして、私からの言葉とかえさせていただきます。

では。

「R」服のそれぞれ

趣味嗜好は人それぞれであって然るべきである。長い年月を経て人類が繁栄たる文化を形成できたのも、各人の価値観を押し付け合うのをやめ個々人の思考思想の自由を互いに尊重し、理解し合おうと努力弛まなかったからに他ならない。その中には相当妙竹林なテイストの趣向を披露する人間がいたとしても、それも立派な個性なのだ、というグローバルな考えのもと受け入れていく、いや最早、そういう考え方もナウくて良いよね、と寵愛すべきであることが昨今に於いても必要不可欠、むしろその命題と世界平和は必要十分な関係を満たすことは自明で、かつ同値であるということは論を俟たない。つまり、私がここで黒タイツのススメについて筆を取ることと、某北の朝鮮国の総書記が労働党の指導者、ないし国防委員会の長として核開発廃止を声高々と明言することをイコールで結ぶことは至極当然で、なんら不可思議はないのである。

健康的な一般男性なら古今東西どこのどいつを無作為に選んだとしても、その下半身に響く女性の服装について一論や二論、一家言持っていることは誰もが知っているところであります。はっきりと、キッパリと言わせていただきますと、女性の言う「可愛い服」と男性の言う「可愛い服」とは、一線を画する似て非なる何かがあるわけですね。男性の発するところの「可愛い服」とはそれ即ち「ぐっと来る服」のことであります。え、これでは伝わらない?「ぐっと来る服」とは、「下半身に響く服」であり、もっと端的に、直接的な表現に身を任せれば「やりてぇ服」と言うところにございます。

 

別にあんたらの性的興奮をどうたらこうたらするためにあーしら服着てるわけじゃないんで。

 

それは、それでいい。一つの主張として受け取っておこう。しかし、一切合切女の言う可愛い、のためだけにその布の集合体があるのだ、とは、言わせん。言わせんぞ。気になる男と出かける時にはそれなりの服装をするだろう。それは、"彼に気に入ってもらうため"である。"可愛い"と思ってもらうためである。ところがそこに男女の可愛いの理解に差異があるため、先ほどのビューは引いては、"彼の性壁に突き刺されっ!⭐️"と全く意味を同じとするところになってしまう。

 

ま、ま、それは確かに拭えないわね。あーしらも勝負下着とか言うしね。しかし、それは彼に対してであって、あんたを対象にしてるわけじゃないのよ。

 

よろしい。そのオピニオンは受け取っておこう。貴方達がそういう考えであり、それを尊重すべきであるように、男共達がその目に映る大半の女性を性的に見ていることも1つの諸概念として受け取っていただきたい。そして、私が黒タイツをこよなく愛している。と言うこともひとつの事象として見守っていて欲しい、と主張したい。これは、議論ではない。そこにある。公理のようなものだ。春が曙る様に、草木が芽吹き、誰も呼びかけもしないのに熊達が長い冬眠から目覚める様に。心理としてこの世界線に確かに、静かに、或いは厳かに、横たわっているものである。気持ち悪い、と今あなたが思ったとすればそれも森羅万象であるが、私もこの論からは一歩も引く気はない。しかも、デニールは80以上。これに尽きる。え、薄ければ薄い方がいい?ま、ま、これはディベートではないためあまりとやかく言わないが、それは、私から言わせれば「分かっていない」と一蹴せざるを得ない。私からすれば、薄いタイツは「男って、こう言うのが好きなんでしょ」という一面が目に余る。もちろんそのおみ足は素晴らしく、生足にホットパンツなんか最高の相棒であることは数多の論文からも一目瞭然だし、ミニスカートからニーハイまでの国土が聖域に指定されていることは日本の憲法にも定められているところである。

しかし、タイツに限っては80デニール以上の物が良い。なぜかは自分でも説明つかないが、濃い目のタイツが素晴らしく似合う女性が目の前で脚を組んで座っていたとすれば、それを肴にそのままホッピーセット(白)を頼んで中外を1:2の割合で飲み続けたいところである。英語で、Rのつく月は牡蠣が旨い。と、聞いたことがあるが、ならば私はこの声を大にして届く範囲に轟かせたい。女性諸君はRのつく月は積極的に80デニール以上のタイツを履いてください。お願いします。

兼平を偲んで

その蕎麦屋は新宿歌舞伎町の端っこ、最早JRの駅は新宿より大久保や新大久保の方が近い、というところにあった。職安通に面していて、通りを挟めば近くには韓流アイドルのライブハウスや韓国料理の屋台などがあり、やたら目の下の赤いメイクの女子高生が目につく場所であった。今から7年ほど前だろうか、その付近でアルバイトをしていた私は蕎麦が好きなのでその店で週のうち半分は食事をしていた。

 

その店は、昭和を感じる看板に、古臭いショーケースに食品サンプルが置いてあった。内装も、オレンジがかった赤に黒い斑点模様の付いた柄のいかにもな机や椅子、壁に貼ってある相撲の番付表や、知り合いにもらったであろう小さな舞台のポスターなど、雰囲気がまず私好みである。メニュー表は、何度か値上げしただろうか、値段が上から書き直してある。しかし、古くからやってるだけあって値段は庶民的で、なにより、おそらく昭和の時代から店を構え、激動の平成をも生き抜いてきた面構えは、どことなく古代樹のような風格があった。私は蕎麦が好物であるが、もっぱら食べる方専門で種類や調理には明るくない。従ってその蕎麦が何割だったのか、どんな蕎麦粉を使っていたのか、そんなことはわかりっこなかったが、どの品も幾多の蕎麦屋の暖簾をくぐった私の舌を唸らせる一品だった。よく頼んだのは丼ものやカレーライスと蕎麦のセット、かき揚げ丼、山かけ丼、天丼、小海老天丼、カツ丼、親子丼、生姜焼き丼や牛丼など、他にも様々などんものがあり、そのどれもが美味しく、それがさらに美味しい蕎麦とセットになるというのなら、これ以上嬉しいことはない。私の一押しは小海老天丼とかき揚げ丼である。他にも鴨せいろや天ざる、つけとろろやおろし、力になめこ、カレー南蛮、何をとっても美味しく、この店があれば私のそばライフは一生満ち足りることだろうと思っていた。

その店は綺麗な白髪がトレードマークの店主と、いつでも明るく、ポジティブな奥さんの70代夫婦が2人で営んでいた、通っていくうちに、私のことを覚えてくれて、スマホの設定を頼まれたり、エアコンのフィルターや電球の交換をしてあげたり、そんな、距離になっていった。社会人になって、新宿でアルバイトをしなくなってからも、私はその店に足繁く通い続けた。あの2人は私を子供のように思っていてくれていただろうか。週末に行けば、一人暮らしの私の食事を心配してか、よく余り物をくれた。その店は飲むのも最高だ。まず、瓶ビールがクラシックラガーである点が見逃せない。つまみも、マグロの山掛、サバの味噌煮、天ぷら盛り合わせ、おしんこ、湯豆腐、もつ煮、なんでも美味しかった。一押しは湯豆腐で、昆布だしの効いた豆腐や榎を食べると、普段の地獄のような食生活がなんだか浄化されたような気分になった。また、蕎麦屋といえば外せないのが蕎麦湯。ここは、蕎麦湯がうまかった。そのまま飲んでもいいし、店の名前が冠してある麦焼酎で割って飲むのも旨い。ボトルも安かったため、私のボトルは常に2本ほど入っていた。私が飲み始めると、必ず店主は野菜を勝手に出してきた。体に気を付けろよ、といって。

一生、その店があればいいと思っていたが、同時に、そんなことはあり得ないとも分かっていた。彼らは私より随分と歳をとっていたし、子供も孫もいたが、跡取りはいなさそうであった。しかし、これが、なんの予兆もなく店を畳むとは、思ってもいなかった。

 

コロナもあるし、家族もいる。ここは歌舞伎町だし、店を開ければ人は来る。俺はかかったら死ぬだろうし、そうなったら家族に迷惑かかる。目も当てられない。そろそろ、潮時かなって。

 

普通の平日に普通に仕事してたら、突然電話が来て店主がそういった。新型ウィルスの影響で、生活に支障が出ることがあるのは知っていたが、身近には起こらなかった。知人も罹ることはなかったし、自分も心の中ではかからないと思っているし、今まではなんだか自分の周りで起こっていることを眺めているだけのような感覚であったが、その時は憤りを感じたのを覚えている。

その週末、片付けをしているところ、店を訪ねた。くしゃっとした笑顔で店主は、何にもあげられるものはないや、ごめんな。という。いえ、今までお世話になりました。と僕は言った。それでも、店主は何か思い出したように奥からゴソゴソと何かを取り出して、蕎麦つゆのもとになる、秘伝のかえしを6リットル僕にくれた。適切に扱えば、腐ることはなく、年数を重ねれば重ねるほどいい味になるそうだ。僕と、この店の味を繋ぐ最後の6リットルとなった。

 

君は、パソコン類に詳しいから困ったら今度連絡するよ。と言う。

 

今度、とは?そんな日が訪れるかどうか知らないし、わからない。そんなことは店主も一緒だろう。

 

はい、これっきりというのは寂しいので、きっと連絡ください。と返す。

 

その言葉は本当であり、嘘も孕んでいる。不誠実だろうか。失礼だろうか。二人の言葉に嘘はない。大切なのは、気持ちと、今会えた、という事実である。来年は一緒にお花見に行くかもしれない。もう一生会わないかもしれない。ひょっとしたら、体を思って店を辞めたけど運悪く病気になってしまうかもしれない。先のことは誰にもわからないのだ。一時の別れか、一生の別れか。それは、神様にもわからないだろう。一期一会とはよく言うものだ。どんな人間との間にも、出会いがあれば必ず別れもある。スマートフォンが発達してその境目は日々曖昧になっているけれど、確かにそこに境界線はある。今あるつながりは、大切にするべきだ。

私は店を後にした。会えてよかった、と、また会いたい。という気持ちを胸にしまって。

 

店の名は「兼平」。

 

兼平を偲んで。

告知とリテラシー

下ネタ……これは最強にして諸刃の剣でもあり、全世界共通で面白い笑いのネタである。

初対面の人と打ち解けるにも、仲良い人と笑い合うのも、一番手っ取り早いのはそれなのです。

不快だ、という人も一部ではいるがそう立候補する半分くらいは本当は面白いけどキャラ的にそう言っているだけで、秀逸な下ネタで笑わない人間は1人としていない───少なくとも、私はこう、考えているわけです。ええ。幼い頃の排泄系から始まり、果ては性交渉まで、色々あるけどこれが真理であり有象無象の森羅万象の根底にあるんですね。間違いない。

ではなぜ下ネタが面白いのか考察していきたい。なんの序文も説明もなぜこれを書くに至ったかも皆さんはまだ知らないけれど、とかく今日はこれについて書くのです。

いきなり核心に迫ることは難しいので、まずは「笑う」というところから歩みを進めたい。

 

笑うという行為は人間しかしない。厳密にはオランウータンの一部の種など、人間に近しい動物も笑うようではあるそうですけど、数ある動物の分母を考えれば人間だけと言っていい。人とだけが持つ笑いを研究してきた人が今までたくさんいたが、効果や効能は分かっても詳しいメカニズムはわかっていない部分も多い。笑いは、その動作によって人体には様々なプラスの効果をもたらすが今はそれについて詳しく述べたいわけでもないし、まして私自身それらについて専門知識があるわけでもないので、その分野に明るい人が筆を取る機会に譲りたい。

私が論じたいのは笑い自身の持つ機構についててです。なんか、さっき詳しいメカニズムは分かってないって言ってませんでしたか?って言われそうであるが、今から書くことは私の持論であって確たるソースもエビデンスも実験結果もないためどうか話半分で聞き流して欲しい。

 

まず、笑いの構造をとらえると、それは2種類あると考える。

経験の共有と立場の落差である。

立場の落差というのは(少し調べたところシェーマのずれ、というらしい。)簡単に言うと「こういう人(や物など)はこんなことしないだろう」と思われるところ逆とことや想像もしないことを言ったり、行ったりすることである。例えば、とても厳格な校長先生が桂を被っていたとして、それが風邪で飛べは面白い。それは、「あんな真面目な校長先生がはげているなんて、まして、それを隠すなんてあり得ない」と受け手が思っているからである。従って、自分もはげていてカツラをかぶって日々神経の8割を頭部に集中させているような人物は、「俺だってはげてるくらいだから、ベッカムやドナルドトランプだって桂の可能性はあるし、ましてパンピー校長くらいだったら全然あり得る」と普段から認識しているため、そのような場面に遭遇したところで笑わないし、面白くもない。

そしてもうひとつ、経験の共有は、一言で言えばあるあるネタである。あー、それ、あるよね、と思わせることで、それがさらにあまり一般的に言われる物でない場合、そうであればそうであるほど、面白く感じる物だ。

ここまで書いたところで私は声を大にして言いたい。

その、2つを満たすものは下ネタなのだ。下ネタしかあり得ず、そしてそれは孤高で耽美なるものなのだ。さらに下ネタは自分の恥ずかしいプライベートを話すことによって相手に信頼感を与える(心理学ではこれを自己開示という)効果もあるため効果は倍増である。

さあ、淑女ぶってるそこのあなたも明日から下ネタにまみれよう!!

 

ここで皆さんには私が今日これを書いた理由を伝えたい。ところはばからず言えば一言。下ネタを書きたい。これにつきる。ところが、ところがだ。昔の私だったら誰に許可を求めるまでもなく書いていただろうが私も歳を取った上、このブログは知り合いの10代の女性が少なくとも1人以上読んでいることが判明している(奇跡である)。いくら、チャンネルは自由だから…。と言っても、NHKやつまらない民放を前に嫌なら見るな、とは些か言いにくい。と、いうことで、ルールを設けたい。

私がこの記事を以てして投稿する記事のタイトルの先頭に「R」とついていたらそれはその記事は多かれ少ならかれ下ネタを含む、という決まりにしよう。それは、今朝の便について、かもしれないし或いは好きな体位について語っているかもしれない。大尉ではない。体位だ。

これからは、タイトルにそう記してある記事を読むことは、全て自己責任でお願いしたい。気分を害そうが、ムラムラしようが、こっちの知ったことではない。今日言いたいのはこれだけである。さらば。