普遍的等身大

花束みたいな恋をした、という映画を見た。恋愛ものの映画である。

映画が主張する粗筋は以下である。

ある夜、終電を逃すという些細なきっかけで出会った大学生の麦と絹。互いが互いを意識しながら居酒屋で自己紹介をすると、2人は共通点ばかりだということに気づく。同じスニーカー、絡まったイヤフォン、栞がわりの映画の半券。あまりに共通点の多い2人は運命すら感じてしまう。意気投合した2人はそのまま男の家に行き夜通し喋る。数日経ち、3度のデートを重ねた2人は交際することに。順調に恋路を進める2人であったが、重なった共通点、価値観、趣味は2人の就職を機にずれるようになっていく。喧嘩をするようになった2人は、やがて喧嘩もしなくなるくらいに希薄な関係になってしまい…。

ということである。おそらく映画の狙いは、誰もが憧れる大恋愛ではなく、等身大の、全員が経験のある小さな恋を映し出すことで感情移入させ、月日とともに変わりゆく価値観と、それに伴うすれ違いを描き、共感と自己投影により泣かせる。と言うところにあると思う。花束みたいな・・・というのは、全長の瞬間を切り取る、という意味があったり、花が一本一本紡がれて花束になる過程を恋愛に例えているのだろう。この映画は見た人全員が分かりやすく共感できるよう、史実に沿って展開される。アーティストの活動停止や、アイドルの解散。5,6年前に恋人がいた(もしくはその人とまだ付き合っている)人であれば誰もがその人たちの会話に何か引っかかるようにできている。ほかに、付き合いたての時期に彼の家に三日三晩入り浸ってセックスしまくったり、果てた直後にご飯を食べに行ったり、お風呂に入っていちゃついたり。どんなカップルにも、こんなことがあったよね、というものが少しでも被るように丁寧に男女が惹かれあい心を詰めていく作業と過程が描かれていた。どこかの環境大臣のような言い回しになってしまうが、人は覚えているものしか覚えていない。当たり前である。ではどう言ったものを覚えているかといえば、印象に残ったものしか覚えていないのだ。女性が、男性が女性の胸を見ていることは全部分かっている。ということをたまに耳にするが、それは違う。気が付いたものしかカウントしないから全部わかったような気がするのだ。知らないものは知らないからそもそも母数に入れない。女性諸君、男性はもっと君たちのおっぱいを見ている。・・・話はそれたが、この映画もそれと同じで、世間一般によくあるデートや恋愛をスクリーンで流すことで、それがひとつでも引っかかれば、この映画のカップルは自分たちと同じようなカップルだ。と思わせることができる。かくして自分を重ねてみていると、別れのシーンで泣けてしまう。あんなことあったよね、と昔の恋を思い出すといった寸法である。

そもそも、小さな恋というものは存在しない。彼女が生き返って、とか、時を超えて、とか、寿命が何か月で、とか、記憶がなくなって、とか。そんなものがなかったとしても人の恋愛はいつだって大恋愛である。この映画にしたってそうである。些細なことで付き合って運命を感じるようにできているが、普通、たまたま終電を逃した世代の違う男女4人は飲みに行かないし、そこにたまたま押井守がいることもない。そこで出会った異性が同じスニーカーを履いていて、同じ作家の文庫本を好み、栞に映画の半券を使っていることなどまずないだろう。

そして、時間とともに成長する二人と、それに伴う心情の変化、それによる心のすれ違いを描いているように見える。しかし、人はそうそう成長しない、基本的に成長したと思ったときは、その環境に慣れたか、自身がマイナーチェンジしただけである。この映画の男も、就職を機に考え方が変わり、彼女のことをいつまで学生気分でいるんだろう。と蔑むシーンがあるが、あれは価値観が変わったとか、成長したとか、そんなことではない。もともと環境に染まりやすい性格で、体育会系の仕事に就いたからそう思っているだけなのである。まあ、一種の中二病だ。サブカル好きで駆け出しカメラマンの先輩に憧れていたり、彼女につきあって好きでもないミイラ展にいったり。自分に余裕がなく、環境に染まりやすい性格であったら、ストレスがたまれば他人に攻撃的になってしまうのもうなずける。彼女にしてもそうだ、周りと自分は違うといって周囲に溶け込まないシーンがいくつも出てくるが、自分と相いれない存在に対し、ひどく排他的であった。自分の趣味や考え方はそれとして、別の考え方もそれはそれでいいよね、というスタンスをとれないのであれば、仕事に忙殺する彼氏に不満がたまるのも仕方なかろう。互いが互いに歩み結って認め合うことをしなければ、負荷がかかった時、白日の下に人間性がさらけ出されたとき、うまくいくはずがない。社会に染まって「ピクニック」を読んでも何も思わないかも。と思わず口走ってしまう彼がそれを裏付けている。恋愛のきっかけとして互いの共通点を介して距離を縮めることに何の反対もないが、二人の関係がそれ以上でもなく以下でもない状態が続けば、環境が変わって共通点がなくなった時、気持ちがなくなるのは至極当然であり、予想された事実であると思う。

あの二人が別れたのは、成長の過程で生まれた価値観の相違が原因でも、社会の理不尽さが原因でもない。自分たちがいかに凡庸な人だったか、をゆっくりと、しかしまざまざと見せつけられていくからである。

冒頭で主人公は、自分がGoogleMapに映っていることについて喜んでいる。人とは違ったポップカルチャーを楽しみ、社会の歯車のような人たちを嫌い、自分のイラストの才能を職業に生かしたいと考える。また、出会う彼女もまた、合コンや人脈の発掘などに興味を示さず、自分の感性を大切にし、自身を特別な存在だと思っている。しかし、本当に特別な存在の人間というのは押井守のような人間であり、彼らはそれを神と崇め祭る一意性のない周囲の人間であることに他ならない。

自分の存在がセルフイメージとは違っていた、というのはイラストの仕事がなくなってしまうシーンで演出される。自分に才能があると思って、世界にそれを認めてもらいたいという思いをよそに、自分のイラストはイラストやに惨敗してしまう。自分の市場価値というものをまざまざと見せつけられる残酷な体験である。そして、彼女との生活のために始めた実務的な仕事で現実を知り、当初はあいた時間に創作活動や芸術鑑賞をすると意気込んでいてもそんな時間もやる気もなく、「パズドラしかやる気が起きない・・・」という状況に陥る。社会ではありふれた構図だ。社会に出てからゲームをやらなくなったり、休日に何もする気が起きなくなるというのはよく聞く話だ。しかし、主人公はそう言った人種を一番嫌っていたはずで、自分にとって一番大切なはずの物を守るために自分にとって一番嫌いな人種に成り下がる、というのは得も言い難い屈辱があるだろう。彼女もいっしょで、きっと結婚をして子供を産めば、ゲームに興じたり、マイナーな劇を見に行く気力も時間もなくなるはずだ。彼らを見ていて、おそらくはそういう未来に踏み出す勇気も、愛情もなかったのだろうという背景が推察される。

それは、彼らが社会に出て変わったのではない。大学時代にはそれを遂行するための時間や経済に余裕があった、というだけである。そして、彼らにとってポップカルチャーはそれ以上でもそれ以下でもなかったということである。二人の関係の悪化に、それが、自分たちの理想と現実の相違に気が付く瞬間が、関わっていないはずがない。

冒頭に、じゃんけんのグーとパーに関する主人公の考察が出てくるが、それは「人とは違ったものの見方をする自分」という奢った自分の評価が表現されていると思う。そんな疑問、人類単位で考えれば数えきれないほどの人が感じてきた機微である。そして、自分と同じじゃんけんの疑問をもつ異性を「固定概念にとらわれない耽美な発想力を持つ自分」と同じ発想を持つ人間として陶酔してしまう。平たく言えば、酔った自分を理解できるあいつはできるやつだ。と一緒である。新興宗教が互いの結束力を高め排他的な考えを持つことと同義で、結局、世界が狭いの一言。これに帰着する。

最後のシーン、かつて相手に告白したファミレスに戻り昔話に花を咲かせたところ、若かりしころの自分たちと同じようにポップカルチャーを語る二人の男女が、恋路に踏み出そうともがく姿を見ることになる。二人はこの時涙を流して悲しんだが、それは、必ずしもノスタルジックな心情によるものではなかったと思う。自分たちのような存在が、この世界にはいかにありふれているものだったか、現実を目の当たりにしたが故のものであったはずだ。

自分に才能があるという勘違い、社会の歯車となっていく不安、そして普通であることと自分であること、アイデンティティの模索。

幼い情熱と、その沈下による不完全燃焼感と、淡く古き良き時代と感じる思い出。

その狭間で起こる恋愛模様の描写として、広く人々の心に残る映像であったのではないだろうか。

雑記2

この間家庭訪問に行きました。その時、先生にとって生きるということはどういうことですか。子供に何と言えばいいでしょう。私たちは、答えることができませんでした。と、両親に言われました。

生きる意味、みたいなものを考えたとき、多くの人は自らが積極的に何かを切り開かなくてはならない、そうあるべしと考える傾向にあると思います。特に若者、それも行き詰った人にとってはもちろん、そうでない人にとってもそれは確かに一面として真理です。人は何かがない、あるいは何もない、という状態を恐れます。

それを自らの才能によって切り開くことができる、なかったものを、あるものに変えることができるのだとすれば。例えば、社会的にひとかどの人物となれる、とか。多くの人から評価される何がしかを作り上げる、とか。それはつまり、不安定だったものを安定させる、といったように。なにものでもなかった自分が、なにものかになれた瞬間。心に安寧をもたらすかもしれません。

では、そのようにできない人はどうするのか。ひとかどの人物にはなれない。したことは誰からも評価されない。果たして自らが社会を構成する最小単位である意味は、どこにあるのだろうか。そう考えたとき、その時の心情はとても寂しく、また、惨めですらあるかもしれません。きっとそうでしょう。

けれども、あなたから見て 「才能もあり、何がしかの地平を切り開いて」 見える人、多くの人から見て 「ひとかどの人物」 として写り、「何がしかのことを成し遂げた」 という風に見える人にしても、もしかすると実際のところ、漠然とした不安を抱き、押し並べてのものに対し不満で不快で仕方がない。そんなこともあり得るでしょう。

客観的にどうか、とか、人と比べて相対的にこうだ、というものに心を惑わせるのは、そもそもどうなのでしょう。無意味であるとは言いません。常識は大事です。その常識は多くの人と生活する中で営々と紡ぎあげられてゆきます。故に、誰かの尺度を知る行為は、現代社会で生きるうえで基本的な素養となるはずです。

そのことと、常に他者をものさしにして自らを測ることとは、違います。幸せな人が存在することで、相対的に誰かが不幸になることはありません。不幸な人がいることで、相対的に誰かが幸せになるということにはなりません。貧富の差はあるでしょう。そのところからすれば、物質的な豊かさが常に幸福の指標になる人にとっては、誰かの幸せは誰かの不幸、あるいは、自分の不幸、という結論になり得ます。

僕は主観を大事にして生きています。自分の目からみて綺麗だな、と感じるもの、美しいな、と思える出来事。楽しく幸せだと感じる時間。なるべくたくさんそういうのを見るように、過ごすようにして生きています。その過程で誰かを傷つけることや、あるいは自らが袋小路に陥ることも、やはり多いです。

だけど、その時々に美しいと思った感情、経験、焼き付けた光景、そして誰かと過ごした時間 は絶対です。それは自らの選択で以て手に入れた大事な思い出です。重要なのは、それらが押し付けられた出来事ではなく、自分の主観と選択とでもってそこにたどり着いた、獲得した事象であると、そのことです。

矮小な自分でも、能力のない自分でも、主観を大事にし少しの金と行動力さえあれば、美しく綺麗で愉快なものと出会える。そこにあって、僕自信が物質的に豊かであるかどうか、とか。他の人より少し、いやかなり貧しい、という事実であるだとか。そういうのは問題になりません。かなりどうでもいい指標です。

お金を持っている人が美しく見えるのなら、それに近づくべく何かをするべきなのでしょう。だけど僕にはそういう観点がないので、それらのことはよく分かりません。知人が子供をもうけ幸せそうにしているのが綺麗だ、と思うのなら、自らもそれを獲得するべく努力をするべきでしょう。だけど僕にはそんな目線がないので、それらのこともよく分かりません。

何となく生きています。飯が美味い、とか、今日は晴れた、とか、野菜が安かった、とか、今度旅行に行く、とか。或いは、好きな人と同じ時間を過ごしたい、とか。僕はそういう単純な行為の中に楽しく、美しく、若しくは綺麗である何か、そして幸せな時間を求めます。変わることばかりが絶対である世の中にあって、そうそう変わらないのは食べることと寝ること、あとは自分の知らない場所や景色が世界のどこかに確実にあること、そして共に生きたいと、居たいと思うこと。そう思うに至ったゆえです。要するに、極めて即物的なわけです。それだけのことに対して、生きることは悪くない、と思えます。

仮に、そういう 「美しい」 「好きだ」 と思えるものや人が自分の中から煙のように消え去ってしまえば。この世には美しいものごとや時間なんて何もない、辛苦ばかりが真実だ、と思うようになってしまえば。その時は、生き方を考えねばなりません。

僕は、そんな感じです。まあ、そんなこと言いませんでしたが・・・。

雑記

高校で数学の教師をしていると生徒に言われることがある、こんなことを学んで何になるのか、と。

確かに、サインもコサインも知らなくたって大人になれる。

彼らが思ったように私も高校生の頃は勉強に対する意義を見つけられなかったし、なるべくならしたくないと思っていた。その機微自体は、おそらく日本人の全員が人生の何処かで思ったことのある疑問であるのではないだろうか。私がその疑問に答えを見つけたのは社会人になってからであったが、今日は少々退屈かもしれないが私の考えについて徒然としたためさせてもらう。

そもそも、誰もこの問題にすっきりとした答えが挙げられないのは、この問題に絶対解が存在しないからである。すなわち、勉強しなくてはいけないことに対して、理論として破綻のない、誰にも反論の余地を与えない肯定文は存在しない。世の中には絶対解の存在しないものが数多くあって、そんなこと今日日小学生でも知っている。環境に全く影響を与えない人間の繁栄はできないし、なんの命も賭さずに生命活動を続けることもできない。むしろ絶対解の存在しない問題の方が世の中には多い。しかし、われわれの定義するところによる学生の勉強とはその殆どに絶対解が存在するあまり、その対比として、そもそもの勉強することについての絶対解を学生は、またわれわれも、求めがちである。

遡ってまず、勉強の意義に絶対解が存在しないことから踏み出さねばいけない。そして、それを認めた上で、納得解を探すしかない。誰もが絶対解を持たない、漠然とした問題について考え納得解を与える学問を人は哲学と呼ぶが、勉強について哲学的に思考するにあたり、まずはその作法に則り以下に気をつけたい。

すなわち、自分の経験を一般化しないこと、そして答えをみだりに狭める質問をしないことだ。ほかにも、ニヒリズムとかいろんな教えがあるけど、とりあえず今は無視する。気になる人は勝手に図書館でも行ってニーチェにでも教わって欲しい。

自己経験の一般化は、とかく大人は陥りがちである。狭義的な体験をあたかも真理として扱ってしまう現象である。勉強をするのはいい大学に入っていい企業に就職するためだ。と自分の子供に解くというのは典型的な自己経験の一般化で、それはあなたの人生においてそうであっただけに他ならない。当然、その反対である、勉強などしなくとも良い人生は送れる。という考えを絶対解とするのも広い目で見れば間違いだ。それも、億を超える日本人の中で、たった1人あなたの経験がそうであっただけに過ぎない。今時の若者は、最近の男は、などとちっぽけな自分の世界を一般化してカテゴライズすることは、視野を狭め思考を飛ばすことで自分の幅を極端に減らし、他人の可能性を潰す。もちろん、物事を傾向として捉えることは有益な結果を生むことも多いが、それが全てだとしがみ付いてはいけないのだ。答えの幅を狭める質問とは以下のようなものである。例えば、塾の先生と学校の先生はどちらが教え方が上手いか。などという質問である。今あなたは自分の経験の中から塾に通った思い出を引っ張り出して、学校ではわからなかった授業が塾の先生の教えで理解でき、やはり学校の先生の教え方はなってない、塾の先生の方が教え方が上手いんだ!と思った記憶を見つけたかもしれない。しかし結局それも自分の経験を一般化しただけで、たまたまあなたにとって学校の先生が合わず、塾の先生がたまたま合っていただけである。どんなに有名な予備校講師にも相性の悪い生徒はいる。どんなことにもいろいろなケースがあり、一つとして同じ事象はこの世に存在しない。そんなことを一般化させるような質問は、はなからできないのだ。もちろん、塾の先生が勉強を教える、その一点において技を磨きそれだけを主にした生業であることは無視できないが。

 

では、勉強するのは何のためか。

 

この解の絶対解が存在しないことに着目すれば、あなたにとって意義のある理由があればそれはもう正解だ。つまり、平坦に言ってしまえば、何でも良いのである。いい大学に入るためだと思ってそれに納得すればそれはそれで立派な理由だ。好きな人と同じ高校に行くため、海外で働きたいから、化学が好きだから。どんな些細な理由でも自分にとって納得いく答えがあり、一点の曇りもないのであればそれで充分だ。ただし、再三述べるが、それを他人に押し付けてはいけない。自己の経験は自分の中だけに留めておく、或いは他人に紹介するだけで、それを一般化してはいけない。そんな不愉快なこと、ないでしょう?

そもそも、学問というものは誰かがやらなくてはいけない人間の財産である。微分積分がなければ飛行機は飛ばないし、化学の発展は医療に良い影響を与える。そう言った側面から考えれば、勉強というものは人類に課せられた義務と言えるかもしれない。しかし、肝心なのはそんなところではない。そんな人類レベルではなく、なぜ、この私が、そんなことを学ばなくてはならないのか。という話である。そんなの他の誰か、得意な奴に任せればいいではないか。確かにそれはごもっともだ、恐らくあなたは宇宙開発もしなければ医者にも、きっと研究者にもならないだろう。

あえて言えば私の考えはこうだ。

 

自由になるため。

 

ここでいう自由とは、フリーダムではない。人間社会という枠組みに囲われた、誰に迷惑をかけることもないリバティである。人間がこうして、知恵と知識の上に文化を築いてしまった以上、人間は本来の意味で自由に生きることはほぼできない。ルールの上に生活し、他人に迷惑をかけない程度に自由に生活するには、知識が必要で、それは勉強からしか会得できない。こうなりたい、こうしたい、あんな生活を育みたい、理想の自分を想像するとその過程には必ずどこかで勉強が必要になる。また、もう一つ言えることとして確実なのは、そこで得た知識がいつどこで役に立つかわからない。ということである。ケーキ屋さんを開業したい、だから勉強はいらない、そうは思っても、将来ケーキの材料を海外から直輸入するために英語で交渉する場面が来るかもしれない。公認心理士になってカウンセラーとして働きたいから数学は必要ない。そう思っても実際には心理学には統計学が必要で、微分積分が分からないと苦労する。

勉強で培った知識の殆どが、実生活で役立つことはない。ただし、今現在の生活の中で必要な知識や経験が、勉強によって生まれたことであることも認めなければならない。マイナス面にばかり目を向けてはならない。そう言った意味で自由に生きるために、勉強は避けて通れない。もっと言えば、必要なのは、肝心なのは、勉強によって身につく知識などではない。何かを学ぶ、特に自ら何かを学ぶ、考える。その姿勢こそが本当に身につけなければならないことである。知識的、技量的壁にぶつかった時、重要なのはそれを今乗り越えられるかどうかではない。乗り越え方を知っているか、もっと言えば、乗り越え方を学ぶ、身につける力があるかということである。実生活で困ったこと、人生で、仕事で、何かで困ったことが起こった時、それをどうにかする力は、何かを身につけ学ぶことによってしか得られない。そしてその力は、知識が豊富であれば豊富であるほど引き出しに余裕があり、応用が効く。よく、高学歴は仕事では何の意味がない、などという(それこそ自己経験を一般化した)話を耳にするが、それは知識には、それ自体には何の意味もないからである。それを身につける過程にこそ意味があり、その先の知識はただの装飾品、武装にしかならない。そしてその練習こそが、勉強であり、勉強することの意義である、そう、私は考えている。

 

さんざんぱら自己経験の一般化を批判しておきながらこんなことを言うのも憚られるが、最近の社会人、まあ、特に私の周りだけかもしれないが、には意味のない仕事を極端に嫌い、全てにマニュアルを求める人が多いとおもう。

口を開けば、その作業に意味はあるのか、と尋ねる。そんなもの、私に言わせればあなたの考えるべきことでも、知ったことでもない。勉強と同じである。理不尽に思えても、意味がないと思っても、やることだ。その作業が目を瞑っても、頭のブレーカーを落としても出来るようになるまでなって、初めて自分のものになる。ものの本質というものは、そこまで行かなければ理解できない。英語の文法を本当の意味で理解するためには膨大な量の演習が必要なように、仕事にも演習は必要だ。意味のなさそうな仕事や、理不尽な仕事はそう言った社会人としての基礎体力をつける。そしてその努力を惜しむ人が、最近は(僕の周りだけかもしれないが笑)とかく多い。それはやはり、勉強の本質を理解しないまま大人になったからだろう。頭のいい大学を出ればいいのではない。ただ、それを理解した人が高学歴には多いというのも事実であると思う。一見無駄に思える仕事が他で役立つかもしれない、今の知識では理解できないだけかもしれない。現状の、身の回りだけを見て喚き散らかす人間を見ると残念でならない。自分の可能性を減らすだけなのだから。勉強と同じで、仕事だって自分が覚えた後誰かに(主に後輩に)教える時に、無駄だと思ったことは伝えなければいい。それなのに基礎体力をつけることを怠ったまま後輩を持つから、何か聞かれた時に、「わからない」「あの人に聞いて」「調べれば」となる。そして往々にしてそういう人たちは教えるのが下手である。なにせ、自分が演習をこなしていないから、さらには本当の意味で仕事の本質を理解していないから、その仕事の意味も説明できなければ要点も教えられない。だからマニュアルに頼る。

…このまま愚痴を書けば雑記じゃなくて悪口になりそうだ。見苦しくなる前に、この辺で筆を置くこととする。

 

え?そんな大人にはなりたくない?

じゃあ、意味なんか考えずに勉強なさい笑

「R」それぞれの常識

 人にはそれぞれ自分の常識というものがある。その入り口は環境や、当時の思考に左右されるとして、一旦そう決めてしまったものは人間なかなか変わらないし、変えられない。今まで目を向けてこなかったものに興味を向けるのは至難の業で、ひとたび大人になってしまえば変化を嫌って自分の中の常識を変えることは滅多にない。その品目が多くなれば多くなるほど、「あの人は拘りが強い」なんて言われてしまうのだけれども、そんなものどんな人間にだってあるのだ。そして、それと同時に、今まで関わってこなかったもの、そしてこのまま人生におけるイベントが発生しなければこれからも関わらないもの、というものが存在する。キャバクラには行ったことがない、とか、牛丼屋でご飯を食べたことがない、とか、そんな些細なものでいいのだけれども、確かに、僕らには避けてきたものが人生にある。

 僕は、この人生においてただの一度も、アダルトグッズを使ったことがない(避妊具を除く)

そりゃあ、それなりのホテルで、ベッドわきの扉を開けたらある金庫みたいな箱に入っている謎の、ビールやらなにやら売ってる自販機でピンクのぶるぶる震える卵形のやつをふざけて買ったことはある。それは、認める。ただし、それを個人で、自分或いはパートナーと楽しむために購入したことはないし、期間として愛用したこともない。もちろん、その使い方は、全世界男子共通のコーランと呼ばれるAVにて全男たちが予習とイメトレを終えているところにあると思うのだけれど、存外、実際に定期的に使用したことがある、という人は少ないのではないか。ソースやエビデンスがあって、実情を知っているわけではないけれど、少なくとも、私は、そう思っている。そもそも実家暮らしだと家に置くのも恥ずかしいし、共用でなければ同棲したりしていれば、それもそれで管理が難しい。完全に自慰に使う、となると一人暮らしの男女くらいにしかチャンスがないのではないかと思ってしまう。実際、僕の友達もそう思ったのだろう。つい先日、いつ頃だっただろうか、定かではないがある昼下がりに友人から電話がかかってきて、自分で使うためのアダルトグッズを通販で購入したが、今住んでいる実家に送らせるのは事故が怖いため僕の家に送りたい、といわれた。

「別にいいけど・・・。何を買ったの?というか、時間指定とかされてもその時間に帰れるかわからないんだけども・・・」

「頼むよ。大丈夫、置き配で頼むから!というか、もう、頼んじゃった。

 それから、できれば中は見ないでほしい。」

「・・・。」

かくして、いささか強引ではあったが、我が埼玉の自宅にアダルトグッズが届くことになった。どんな段ボールで届くのだろうか、というか、アダルトグッズなど買う予定も、その願望もなかったから、これが最初で最後になるのだろうとか、そんなところを考えながら、いざ行かん、決戦の日を迎えた。いくら、友人が半ば勝手に置き配で注文したとはいえ、他人の荷物である。早々に仕事を切り上げた私は、遠い埼玉までゆりかごのように揺れる電車に揺らされうとうとしながら岐路についた。自宅の前には、確かに、何とも言えない大きさの段ボールが鎮座ましましている。家内に段ボールを向かい入れた僕は、一旦それをベッドに置くと、シャワーを浴びて夕飯にありつくことにした。その日の夕飯はホタテのバター焼きとアサリの炊き込みご飯、それから冷ややっこである。海の幸、貝に凝縮された旨味を堪能しつつ、さて寝るかと寝室を目指す。ベッドに赴けば、目に入るのは段ボール。これが、気になって仕方がない。

勝手に、開けてしまうというのはどうだろうか。どうせ渡すときには中身だけだ。

僕に頼み込んできた友人というのもそれなりに仲が良いということも相まって僕はあまり段ボールに手をかけるまで悩まなかった。段ボールをあけると、中には丁寧に梱包されている黒光りした高級そうな箱が入っていた。シンプルな外装で、おしゃれ。外寸は、いいちこの瓶がひとつ丸々入るくらいの大きさだろうか。こうなるともう居ても立っても居られない。中身を確認するまでは、死ねない体になってしまった私は次々と内装を破っていった。そうして出てきたのは、見たことのない器具であった。形と色は、女性用のシェーバーを一回りか二回り大きくしたくらいで、当然といえば当然ではあるが先っぽに刃はついていない。代わりに、シリコン製の謎の小さな舌みたいなものがついていて、それをまたシリコン製のカバーみたいなものが覆っていた。さらに、よくよく見てみると充電できそうな穴がついている。電源を付けたらこいつはいったいどんな挙動をするのであろうか・・・。しかし、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。仕方なく取扱説明書を求めた僕であったが、これが、入っていないのだ。最近のゲームなんかは、もう紙の取説は入っておらず、ネットで済まされてしまうことも多いが、時代の波がなんとアダルトグッズにも来ていたのだ。これでは困る。箱をひっくり返してみると、一枚の紙きれが入っていた。ところがこのアイテム、日本製ではないのだろう。日本語でも英語でもない謎の言語で書かれている。かろうじて読めたのは

[man or woman or etc]

と英語で書かれた一文のみであった。やはり、男性用、女性用と謳ってしまってはトランスジェンダー関連の苦情に対応できないのだろうか・・・。ゆっくりと、しかし確実に、時代の波はアダルトグッズ業界にも押し寄せてきているのだ・・・!そうこうしているうちに、電源ボタンを長押しすると電源が入ることに僕は気が付いた。電源をオンにすると、そのグッズはゲーミングPCを彷彿とさせるような光を見せる。なんと、まさか、アダルトグッズはPCゲーム勢にも寄り添う姿勢を見せるというのか!?この業界、伸びしろがすごいのではないだろうか。そして電源ボタン以外に残るボタンはあと二つ。恐る恐る僕は、そのうち一つを押してみた。

突然、振動とともに上下に動きを見せ始めたのはシリコン製の舌であった。

刹那、私は理解する。

「ハハーン。さてはお前、陰部や乳首をペロペロするやつだな!?」

英知の結晶、人間の科学は性とともに成長してきた。人間、性の関心からは逃れられないサガなのだ。疑問が確信に変わった私は、突如として試したい欲が抑えきれなくなってしまった。別に、一度くらいいいだろう・・・。きっとばれないし・・・。

しかしそもそも彼は、これを一体どういった用件で、どのような用途で用いるのだろうか。自慰行為か!?彼女との夜の営みに使うのか!?!?いや、そんなことはどうでもいい。今は目の前のそのグッズに集中しなければ。

一旦、両の乳首に使ってみよう。そう思った私は、緊張する自分の手を騙しながら。上半身を脱いで、シリコンを左胸に押し当た。そして、スイッチを、入れる。

バイブが鳴るとともに快感に襲われるのではと予想した私の甘い考えはコンマ数秒で打ち砕かれる。

というか、快感どころの騒ぎではない。私を襲ったのは乳首がもげてしまうのではないかと見紛う程の激痛だった。

「イテェ・・・!!!!」

悲鳴を上げた私はその拷問器具をすぐさまどけようとしたがどかない。舌の周りにはシリコン製のカバーがついていたのだが、激痛に悶えながら私はその役割の理解をいやというほど体に叩き込まれた。シリコンカバーが胸に密着して、拷問器具が中から空気を抜くことによってピタリと吸い付いて、僕の乳房から離れない。

「マアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァ・・・・・・!!!!!!!!」

なぜこんなことにと四方八方の八百万の神々に懺悔しつつ、私はその器具を胸からひっぺはがした。恐る恐る確認したところ、よかった、まだ尊敬する両親から授かった乳首は辛うじてついている。

「ちくしょう・・・。何がいけないんだ・・・!」

一旦こうなると原因究明しないと気が収まらない。僕は激痛の残り尾に悶えながら先ほどのトランスジェンダーに配慮したプリントに目を通した。それはもう、ミッケのごとく睨み倒した。ほとんど理解できなかったため、片っ端からその謎の言語を翻訳に突っ込む。そうして僕は次の一文と出会うこととなった。

 

「ご家庭にある、お手持ちのローションとともにお楽しみください。」

 

くそが!!!

一般家庭に!!

お手持ちの!!!

ローションが!!!

どこにあるか!!!!

バカヤロウ!!!!!!!!!

こちとら深夜番組のADでもAV関係者でもないんだぞ!!!!

舐めやがって。こうなったら意地でも使わないと乳首に申し訳が立たん。

家中のローションの代わりになるようなものは片っ端から試した。順に、ボディソープ、シャンプー、サラダ油、オリーブオイル、ごま油、である。結論から言おう。この中で一番ローションの代わりとなりえる逸材、唯一近しい存在になれたのは、オリーブオイルであった。どうも、ぬめりが良い。妖艶でなまめかしく、ねっとりと絡みつく。あと、匂いもいい。お洒落な気分になる。こいつならきっと実戦でも通用する。そう、思わせるだけの実力は確かにそこにあった。反面ごま油、あれはダメだ。何とも言えない気分にさせられる。オリーブオイルという武器を手にした僕がその後どのような行動に出たか、所憚らずにここで述べるのは野暮というやつなので記述しないことにする。成就した恋ほど聞かされて聞き苦しいこともないだろう。

しかしながら、ひとつ気がかりといえばそう、オリーブオイルだらけになってしまったその器具を友人に渡すのだが、はたして大丈夫だろうか。

そればかりが心配な賢者の僕であった。

 

酒と僕1

 

 

僕の話をしよう。

と言っても、僕はいつも僕の話しかしないのだが。

僕の母親は徳島の生まれだ。徳島といえば阿波踊りとすだち。なんにでもすだちをかけて食べる徳島は食べ物が美味しい。いや、四国なんてきっとどの県も食べ物は美味しいに決まっているが、徳島と、ちょっと香川に行ったことがあるくらいだから僕にとって四国の美味しい食べ物はイコールで徳島のものになる。冷奴にもすだち、菜っ葉のお浸しにもすだち、秋刀魚にだってうどんにだって、もちろんすだち。家庭によっては味噌汁にだって絞るし、醤油ラーメンにもかける。あと、個人的にこれが1番のすだちの使い方だと思ってるのが、日本酒にすだち。日本酒好きのあなたなら、きっと理解できないかもしれない。確かに、高い日本酒はそのままで飲んだり、きりっと喉をくぐらすくらいに冷やして飲んだ方がいいと言われるかもしれない。それも、もちろん良い。しかし、すだちを絞った日本酒はその甘さがその酸っぱさによって引き立ち、無限の味わいを見せる。一滴垂らしても、数滴垂らしても日本酒はまた違う顔を見せる。四季折々の日本の季節のように、深く、しかしあどけなく親しみやすく変化する日本酒は、つんとした美人がはにかんだような高揚感を覚えさせる。

日本酒と言えば母は酒豪で、大腸を悪くするまではかなりの量をいっていた。専門はもっぱらビール、芋や米の焼酎、日本酒、ワインといった類だ。昔は赤ワインをよくラッパ飲みしていたものだ。詫びも風情もない飲み方だが、今になって思えば、母にも忘れたいことや、ストレス、心労が多かったのだろう。最近は色々とあって母とは1年ほどあっていないが、元気でやっているだろうか、どうかラッパ飲みなどせずしっぽりとお猪口でも握っていて欲しい。

母に比べて父は下戸で、ビール1杯でも飲めば顔は真っ赤になるし、すぐ寝る。母は泣き上戸だが幸か不幸か僕には遺伝しなかった。僕は母の酒の強さと父の寝酒体質を遺伝したと思う。なんともいい具合に授かったものだ。その下戸の父は母にほとんど一目惚れして口説いたそうだ。母に言わせれば、君と結婚できなきゃ死ぬ。と泣き落とされて仕方なかったのよ。という事情らしいが、母の方がその気だったかどうかは当時の2人にしかわからない。2人の出会いは仕事を通じて、、ということらしい。父は着物の会社。母は別会社でデザイナーみたいなことをしていて、もちろんその類の仕事で出会ったそうだ。酷くかっこつけの父は、自己紹介で自分はルパン三世に似ているのよく言われる。と言ったとか。我が父ながら恥ずかしさに表情筋が消え失せる。しかし、およそ二十も年上の父が母に相当入れ込んでいたのは事実のようで、結構式当日まで年齢を10程サバ読んでいたらしい。式場で大喧嘩したと記録にあったが、成田離婚でもされたら私は誕生しなかったということになる。こんなことを奇跡というのは烏滸がましいが、世の中というのはバタフライエフェクトのように変化するものだとつくづく思う。

かくして4人兄弟の2番目として産声を上げた僕はすくすくと育ち、母親がベロベロに酔っ払うのを目に焼き付けながら高校生になった。

これは僕の持論だが、現代日本において若者の酒とタバコは入口が大体において同じである。特に、早くからやる奴に限っては100%と言って差し支えない。格好つけたい。これに尽きる。当の僕としても日頃からどう格好つけるかばかり考えて学生時代を過ごした。朝起きたらワックスでガチガチに髪を固め、ローファーのかかとを踏み、下着が見えるくらいズボンを下げてはいたものだ。1日のうち半分くらいは女子のことを考え、もう半分はエロいことを考えていたと思う。まあ、年頃の男子なんて全員そんなものだろうけど…。

そんなことで、背伸びのしすぎでもはやバレリーナのようになっていた僕は高校生の頃には母に頼んでビールを飲んでは周りに自慢していた痛い学生であった。あの頃にTwitterがなくて本当に良かったと心の底から思う。あんなもの高校時代の僕がもったら黒歴史量産マシーンと化していただろう。多分、「来週は試験!みんな頑張ろう!」などと呟いて写真を上げては、その隅っこ、勉強机の端にビールの缶を写り込ませる。くらいの芸当は軽くやっていたと思う。まあTwitterなんてなくても日常の学校生活で「昨日飲みすぎてツレーわ…」と、本当の意味で呟いていたので結果痛さに変わりはないのだが…。学生時代からの友人が極端に少ない僕だが、それも納得の厨二具合である。結局、あの頃の自分があまりにもかっこ悪かったと気がついたのは、それから随分と時が流れてからだった。

今の僕が、あまり背伸びせず等身大の自分を晒せる人に魅力を感じるのは、自分にないものを持っているからだろう。結局今の僕はあまり成長していないと思う。きっと、これは死ぬまで続くのだ。

(2に続く)

 

「R」続・形ないものに真理は宿る

男は結局、おっぱいには勝てない。

 

こう、つくづく思うのである。どんなに私が面白いテキストを書いたところで、たわわなおっぱい1つに(2つに)惨敗するんだろうな、というのが正直なところだ。時の総理大臣だって、外交関係や特別給付金をどうとか、日本のために尽力してどうのこうのといってはみても、おっぱいの前では無力である。目の前の乳首に吸い付き、揉み、童心に帰るのだ。これは一つの仮説に過ぎないが事実、巷に存在すると思しき噂があるYouTubeなる界隈では、生で見せてもいないのにおっぱいYouTuberが蔓延っている。料理系おっぱいYouTuber、ヨガ系おっぱいYouTuber、ゲーム実況系おっぱいYouTuber、ピアノ系おっぱいYouTuber、その数は無量大数的に増え続け、常に高水準の需要の元支えられ続けている。その法悦な乳房から繰り出される映像は、顔も見えていないのに男の再生数を掴んで離さない。一昔前なら考えられもしなかった事実である。

なんだまたおっぱいの話か…。読むのやめよう。

御仁、しばし待たれよ!いや、おっぱいの話には違いないのだが、古い諺もこう説く。急いては事を仕損ずる。そう早急に物事を判断するのは良くない。一旦全部お読みになってから「なんだ、結局おっぱいの話だったじゃないか」そう、言って欲しい所存だ。

 われわれも種の存続、或いは繁栄を担う21世紀の漢であるが故、その営み相手の異性を苦しいかな、選ばなければいけない(我々が選ぶとき、彼女たちもまた同じように我々を選んでいることはこの際棚に上げておく)。つまり何が言いたいかといいますと、僕たちも雄ですから、異性の容姿や外見に関しては一人一人しっかりと自分の好みがあるということです。

目が大きい人がいい、くびれのある人でないと嫌だ、豊満なバストをブルゴーニュ地方に実らせるお人がいいとか、そういった類のことを複数個条件を付けて所持しているわけです。しかしながら、多感な時期を過ぎ、ゆっくりと大人の階段を上った僕らは残酷にも「容姿に関して理想の異性をこの手にすることはできない」そのことを悟ってゆくのである。いつだって現実は生温く、そして人生は実に雑多な色をしていた。そりゃ、顔で売れていたり、お金が腐るほどあったりなどすれば、ある程度より取り見取りということにもなるのであろうがそれでも必ず自分のものにできるというわけではない。さすれば我々凡人の域を例え1ミクロでも踏み出でない一般ピーポーの僕らはことさら手に入れることなどできない。現実を受け入れるしかないのである。

なんですって?女性を物みたいに言うな?今そんな話は一切していないし女性蔑視がどうとかいうのであれば僕のブログなんて当の昔に打ち切りになってる。ブログなんて管理人のマスターベーションみたいなもんだからフジテレビよろしく嫌なら見なければいいのだ。互いに嫌な思いを募らせる前に今すぐ回れ右するべきである。

 

兎にも角にも、理想郷の実現はそれはそれとして置いておいて、僕らは(女性もそうだろうが)結局のところ住めば都を実践するほかない。すなわち、少しでもパッションに引っかかる何かがあれば、何か一部分だけでも欲情の鍵盤をかき鳴らす何かがあればそれでいいとするのである。B'zの稲葉さんも「愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに」「もしそれが君のほんのイチブだとしても何よりも確実にはっきり好きなところなんだ」そう、歌っている。

100年の恋も冷める瞬間というものが世の中には存在してしまうが、これに耐え得るほど、そんなことどうでもよくなるほど相手のことを好きでいればいいというだけの話である。誰しもが経験があるこの瞬間、後々になって熟慮してみれば簡単で、如何に浅はかな話であろうか。何を隠そう私も、学生時代好きだった女の子の部活姿を見て好きでなくなったことがある。彼女は女バスだったのだが、シュートフォームがどうも気持ち悪い。特に、それ以外に外見や容姿に欠点はなかったし、性格も、まあ、軽く接している分にはとても好印象だった。ただ、バスケットボールのシュートフォームが気持ち悪いというだけで好きでなくなってしまった。なんとなく覚えのある人がいるのではないか。箸の持ち方、歩き方、笑い方、何でもない、その人の本質を語るにはどうでもよすぎる細かい所作がどうも気になってしまって好きでなくなってしまう。結局、そこまでその人のことを好きでないだけなのだ。要するに、とても長い枕となってしまったが、私が言いたいのは痘痕も靨ということである。

この記事の前に私は、おっぱいはそこに存在するだけで素晴らしい、という旨の記事を書いた。書いただけでは意味がないが、私は常々ディベートの際には核の主張を声高々に説いて回っている。琵琶法師と呼んでほしい。しかし、該当の記事を読んだ知人女性は悲しそうにそれでも私はこの胸をどうにかしたい・・・。あなたの言っていることはただの詭弁、机上の空論よ。バカ!!短小!!と言わんばかりの表情を落としていた。

うろたえるな!短小だが勃ちは良い!・・・気持ちはわかる、ただ、僕の主張も変わらない。つまるところ、配られたカードで勝負するしかないのだ。そりゃ、僕にだって思うものはある。例えば、おっぱい界隈でいえば、乳輪は小さい方が良い、という主張である。僕は積年これは男の総意だと思っていたがどうやら違うらしい。昔独自のアンケートを取ったところ、乳輪小さい派は6割ほどにとどまってしまったのだ。これはいったいどういうこt・・・いや、脱線しそうである。男→女の乳輪問題について述べることは別の機会にゆっくりと譲ることにしよう。とりあえず、今知っておいてほしい定義は、乳輪は大きいほうがいい、という男性と乳輪は小さいほうが法悦、という男性は見分けがつかない。ということである。では、女性諸君はどうすればいいか。半丁賭博よろしく、脱ぐまでわからない賭けに出るしかないのか。そういうことではない。もう恋に恋する淡い時代は終焉を迎えている。僕らは大人になり、俯瞰的に恋愛をすることができる。つまり、あなたのおっぱいが極端に小さかろうが、それに比べれば乳首が大きく全体のバランスで見ればおかしかろうが、乳輪が予想より大きかろうが、そのすべてを愛しぬく自信がある。これは真実の話だ。とにかく、僕は女性のその着物をはぎ取った時乳輪が小さいと愉悦的に楽しむことができるのだが、たとえ僕の愛した女性の乳輪が500円玉よろしく、なんならマンホールを連想させるような出で立ちだったとしても、僕が本当にその女性を愛していたのであれば、乳輪ごと愛そう。そういう思いでいる。ということなのだ。何度も言うが、生まれ持ったこの体、そうそう変えられるものではない。あなたの身体的コンプレックスが原因で別れてしまったとすれば、物言いはひどく端的になってしまうが、それだけの愛だったということである。どーんとぶつかっていきなよ。

 

しかしそれに際して、ここまで飽きもせず読んでくれたあなたは、身体になにがしかのコンプレックスを抱えていると思うのだけれど、それは例えば乳首の先端からどうしてもカメムシの匂いがする。とかそういうもので構わないのだけど、とにかくその時分的欠点が有事の際、白日の下に晒されてしまった、けれどありのままの姿で彼に退治しようとしたその時。どうかこれだけは約束してほしい。こういってほしいのだ。

 

「だめ・・・。みないで・・・。」

 

これだよこれ。これこれ。わかる?いや、わかってほしい。その姿勢があるだけでメンズ側としてもいくらでも対処の仕方があるってもんですよ。

たとえ乳首がサファイア色だったとしても

陰の毛がアマゾンで、命の泉が秘境にあったとしても

生板なんてもんじゃなくもはやクレーターだったとしても

一言、そういってくれればそれでイッツオーライ!なのである。

「だ、だめ。みないで・・・」

「ばか。そんなの気にするなよ・・・」

分かりますか、これが日本の侘び錆び、和の心です。ところが、これがちょっと気を抜いていて乳首に一本アスパラガスのような毛が生えていたとして、それはそれでいいんです。ただ、それをいざ確認してしまったときに「生えてますが何か?」という態度をとられてしまってはこちらとしても「なんだこいつ、もう女捨ててんのか・・・」と早急なオピニオンに成らざるを得ない。それはそれは、お互い損ではありませんか?

もちろん、羞恥の事実が白日の下にあられもない姿で放り出されたとき、無理に平静を保とうとするその機微自体は理解に値する。誰にだって弱さを見せたくない。そんな感情はいたって自然である。しかしこの状況に至っては、それをしてしまうことはマイナス方面にしかモーメントは働かない。心が動揺するのであれば、正直に、あなただけしか見せないという一面を、赤面しつつ見せつけ「だめ・・・」というのが上策というものである。そしてそれは、普段のあなたからギャップがあればあるほどに、面白いほどに効果的なのである。

 

長々とつづってしまったが、理想は理想として抱きつつ、我々は、泥臭くも常に残酷で冷たい現実に向き合わなければならない。理想への道は険しく、到達できないのだから。今ある乳房で!陰茎で!勝負するしかないのである。別に僕が短小だからこのような話をしているのではない。そんな、慈悲を与えるような生暖かい目で見ないでくれ。自分の短小は、自分が一番わかっている。ゆえにこの話はブーメランのように私に突き刺さってやまない。ああ、どうにかしたいなあ。

Ashi.Dumerna

名探偵コナンが何故こんなにも人気を博すのかというと、もちろんその鬼気迫るストーリーが面白く、謎解きの爽快感が一押しだからというのもありますけれど、1つに我々人類が百年河清を俟ってもなし得ることのできなかった強くてニューゲームを実践しているからである。と、いいたい。知識や経験を持ち越したまま過去に戻れれば・・・。誰もが一度は思い描いては、過去に残した後悔を募らせ悶々とした時間を過ごしたとこがあるんじゃ?あの時の一言がなければ違う結果に…。あの学校に行けばよかった!人生の分かれ道に戻りたくなることは多々ある。

小学生に戻って英検に合格したり、高校レベルの問題をすらすら解く。これもまた一興。羨望の眼差しを受けつつ、神童の名を欲しいがままに薔薇色の人生を歩む。馬鹿馬鹿しい?たられば?じゃあなんだ、この考えは軽佻浮薄か!?軽慮浅謀とでもいいたいか!?嗚呼、強くてニューゲームしたいですなあ。

しかし我々はその一方で、精神的には1歳たりとも若返りたくなどないという思いも持つ矛盾した悲しい生き物でもある。すなわち、今現時点での精神状態が、常に生まれてから一番良い、と言うことにしている。

 

「オールとか?もう出来ねーよな。なんつーか、あれは若さの特権だったよね笑

大学生にもなって、俺らも年取ったよなあ笑

あ、じゃあ、お前はこっちか。お疲れ〜」

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「かぁ〜。大学生のお疲れーほどイラつくもんはないっすよね。お前ら働いてんのかって笑

自分の金で家賃払ってから言ってほしいっすよね笑 ま、俺らも?コールとか?やってる時代ありましたけどね?

ところで、今日この後どうします?ま、ここは一つ。キャバクラとか!?行っちゃいます!?」

食物連鎖のように若気の至りは続く、いくつになっても人は過去を振り返り、卑下し、自虐し、ときに反語的に羨んで自分の代わり様を振り返る。我々はそれを成長と呼んでいるわけだ。

俯瞰的に見ればそれらは大体において成長などしていない。周りは成長したと疑わないあなたや私を、別に今だって…?と、冷ややかに思っている。過去の選択肢の変更によって今の自分の立ち位置に差異が出るかは理解しかねる。ある小説の一節はこう説く

 

「どうせあなたはどんな道を選んだって今みたいな有様になっちまうんだ。」

 

たらればに終止符を打つ暴論ではあるが、これは時に丸ごと正しいと思わせる説得力がある、根拠はないけれど。過去に戻ったとして、何かを変えたとして、自分が今と決定的に異なる違う何者かになりうる可能性を積極的に肯定してはいけない。

可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。君は、パイロットになれるか?バニーガールになれるか?アイドル歌手に、必殺技で世界を救うヒーローになれるか?七つの海を股にかける海賊になれるか?ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか?

 

なれるかもしれない。

しかしありもしないものに目を奪われてもどうにもならない。

大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の他の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。

バラ色の人生など存在しない。なぜなら世の中はバラ色ではない。実に雑多な色をしている。

 

後悔するためだけに過去を振り返るべきではない、これから起こる未来を変えようと思うなら、自分を認める意外に他ない。先日私は知人女性の寝顔を見る機会があったのだが、こんなことに思考を走らせながら、過去を振り返った。

 

何歳だったか覚えていないが、その日私は性欲に非常に忠実だった。ワンナイトできるかどうかはいかに積極的にバットを振るかどうかにかかっている。若かったこともあり私はどんなボール球でもバットを振るつもりでいた。いわゆる街コンというものに参加していたのだが、その日私の目の前に投げ込まれた球は丁度打ちごろのど真ん中ストライクであった。端麗な顔立ちに未亡人のような幸の薄い雰囲気をそこはかとなく醸し出し、深い黒のワンピースを纏ったその女性は比喩表現でなく間違いなく私のストライクであった。しかし、しかしね、男性諸君にならわかってもらえると思いますが、こういう日はちょうどいいボール球のほうが振ってやろうっていう気持ちになるんです。容姿端麗は一回見送るんですよ。野球と一緒です。そう、なりませんかねえ!?セクシー女優はちょいぶさがいいのと一緒ですよ。或いは、たまに自分の趣味嗜好から若干逸脱したやつでいきたいのと同じ。今日は、外人ものじゃないとダメなんだ!!しかもやたらスポーティな音楽が流れてるやつ!!みんな、あるでしょう?女性はどうなんですかね。なんか今日はどうなっちゃってもいいかな♡って日にジョニーデップみたいなゴリゴリのイケメンが相手だったら開きかけの股、一旦閉じません?そういうことですよ。

兎にも角にも、枕が長くなりましたが、とどのつまりひとしきり彼女とお酒を楽しんだ後、たぶんなんかそのままいけそうな雰囲気もありつつも気が引けた私はそのまま岐路についてしまったのです。連絡先くらい聞いておけばよかった。

 

過去は振り返ってはいけない。どんな選択肢を選んだとしても今の自分があるのだということ、そのありのままの自分を認めなければならない。その過程はどうであれ、今の自分がここにあるのだ。

 しかし、そんなことは分かったうえで、家庭が結果に与える影響の少なさを自覚したうえで、それでも、いや、なおさらというべきか

 

網から逃がした魚はことのほか大きかった。

 

過去に、戻りたいですなあ。